アリストテレスの知慮10

sumita-mさんからアーレント解釈の恣意性について、id:kurahitoさんからハイデガーについてお茶を濁したことについて、手厳しいご批判をいただきました。
ご批判を無にしないためにも充分なおさらいをして応答したかったのですが、仕事や家事に追われて御返事ができないままいたずらに日数ばかり数えてしまいました。いまだにアーレントハイデガーもじっくり読み直す時間がとれていません。しかし、これから本業の繁忙期を迎えますので、取り急ぎ、今の時点での弁解のみ書き出しておきます。

sumita-mさんのご指導

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090319/1237480149

アレントの“The Crisis in Culture”における「フロネーシス」についての議論。また、『カント政治哲学講義』の編者ロナルド・ベイナーの解説「ハンナ・アーレントの判断作用」を引きつつ、「彼女はカントをアリストテレス的に読みかえたのだ、と思われる」。また、「ペリクレスが称讃されるのは、自分一個人の利害や功名心を離れて政治を指導したと伝えられることによるのであって、アーレントの言う「没利害性」とは、アリストテレス的に言えば「自分を含む全体にとって最善を目ざす」とほぼ同義であろう」。アレントのいう「偏らないこと(impartiality)」については、同じ『過去と未来の間』に収録されている「歴史の概念(The Concept of History)」を参照されることをお奨めする。多分、それは世界か魂(自己)かという問題と関わっている。広坂さんが引用した“The Crisis in Culture”のパッセージの(原書では)次の頁に、カント的な「趣味判断」に関連して、

この後、sumita-mさんは原書で参照すべき箇所をわざわざ引用してくださいましたが、たいへん情けないことに私は英語を解しませんので、邦訳での該当箇所の見当を付けるのに骨が折れました。
私が引用したのは次の箇所です。

ギリシア人はこの能力をフロネーシスすなわち洞察力と呼び、それを政治家の第一の徳あるいは卓越と見なし、哲学者の知恵から区別した。この判断する洞察力と思弁的な思考の違いは、前者はわれわれが共通感覚と通常呼ぶものに根ざすのに対して、後者は絶えずこの共通感覚を超越する点にある。共通感覚−−フランス語では示唆的にも「良識」(le bon sens)と呼ばれる−−は、共通世界であるかぎりでの世界がもつ本性をわれわれに開示する。われわれの厳密に私的で「主観的」な五感やそれらの感覚与件が、われわれが他者と共有し分かち合う非主観的で「客観的」な世界に適合しうるのは、この共通感覚のおかげである。判断することは、他者との世界の共有を可能にする、最重要ではないにしても一つの重要な活動様式である。(アーレント「文化の危機」『過去と未来の間』p299)

ついでですが、この引用は恣意的で、実はこの直前は次のようになっています。

判断する能力は、まさしくカントが示した意味で特殊に政治的な能力、すなわち、事柄を自ら自身の視点からだけではなく、そこに居合わせるあらゆる人のパースペクティブで見る能力にほかならないこと、さらに、人びとが公的領域、共通世界で自らの位置を定めうるのは判断力によるのであるから、判断力は政治的存在者としての人間の基本的能力の一つであること−−これらは、政治的経験が他から区別されて以来の旧い洞察である。

この文章に続いて「ギリシア人はこの能力をフロネーシスすなわち洞察力と呼び、それを政治家の第一の徳あるいは卓越と見なし、哲学者の知恵から区別した」云々と続くわけです。アーレントにお詫びしながら写経しました。
それはともかく、sumita-mさんが指摘されているのは次の箇所だろうと見当を付けました。

趣味という活動様式は、この世界が、その効用とかそれにわれわれが抱く重大な利害関心から切り離して、どのように見られ開かれるべきか、人びとが今後世界のうちで何を見、何を聞くかを決定する。趣味は、世界をその現われと世界性において判断する。趣味が世界に抱く関心は純粋に「利害関心なき」ものであるが、これは、趣味のうちには生命への個人の関心も道徳への自己の関心も含まれないことを意味する。趣味判断にとっては、世界こそが第一のものであって、人間、つまり人間の生命あるいは人間の自己は第一のものではないのである。(邦訳p300-301)

もちろん、引用した文章だけを読んで、そのほんの少し先にある文書を読まなかったわけではありません。カントに即したこのアーレントの趣味判断についての定義からは、「アーレントの言う「没利害性」とは、アリストテレス的に言えば「自分を含む全体にとって最善を目ざす」とほぼ同義であろう」とは言えないことになります。私はそのことを黙殺していたわけです。アーレントに即するならばたいへん不当なことです。sumita-mさんがこの点を見とがめられたのもまことにごもっともです。
しかしながら、弁明させていただければ、同時にアーレントは、「判断する能力は、まさしくカントが示した意味で特殊に政治的な能力、すなわち、事柄を自ら自身の視点からだけではなく、そこに居合わせるあらゆる人のパースペクティブで見る能力にほかならない」と言い、「ギリシア人はこの能力をフロネーシスすなわち洞察力と呼び、それを政治家の第一の徳あるいは卓越と見なし、哲学者の知恵から区別した」とも言っているわけです。そうすると、アーレントの判断力論には、直接の源泉であるカント的契機とともに伏線としてアリストテレス的契機もあったはずだろうという推測は成り立ちます。だからベイナーのように「カントとアリストテレスを対比することによって、次のような非常に深刻な問が生じる。第一に、注視者が判断力を独占するのであろうか、それとも政治的行為者もまた判断作用の能力を働かすのであろうか。」という問いも出てくるわけです。私は今回、アリストテレスを読んでおりましたので、特にこの点を強調したかったのです。ただし、白状しましたように、これをアリストテレス寄りに政治的行為者の能力だと短兵急に断定したのはアーレントの意に即していないでしょう。このことはsumita-mさんのご指摘の通りです。

そういえば、ハンナおばさんの論集もBetween Past and Future。さて、ハイデガーの師匠であるフッサールが例えば「内的時間意識」を考えたときにはベルクソンを意識しなかった筈はないのだろうと思います。また、アルフレート・シュッツは先ずベルクソンにはまって、その後フッサールに触れたので、「生への注意」を「志向性」に重ね合わせているような感じもいたします(例えば、「多元的現実について」)。

現象学へのベルクソンの影響については、恥ずかしながら私は自分で考えてこの結論に至ったのではありません。木田元メルロ=ポンティの思想』、広松渉現象学的社会学の祖型』などで指摘されていたのを読んで知っていただけです。
一知半解の言い訳はこの程度にしておきます。

kurahitoさんのご指摘

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090315/1237109256へのブックマークコメントです。

>アリストテレスにはあった社会性をきれいさっぱり脱色している。 そうなんでしょうか?欠如の件は社会性を含味しているような予感がしました。

先に白状しておきますと、私はkurahitoさんのお言葉を正確に理解しているかどうか自信がありません。誤解がありましたらご容赦願います。
引いていただいた「アリストテレスにはあった社会性をきれいさっぱり脱色している。」という文には、私の腰砕けぶりが表れていまして、ここで書いた「社会性」とは、脳内では「政治性」あるいは「倫理性」でした。「政治」とか「倫理」とかって怖いイメージのある言葉なので無意識に避けてしまったのですね。
つまらぬ言い訳はともかく、ご指摘は「t-hirosakaは、ハイデガーのフロネーシス解釈には政治性が欠如していると言うが、その欠如こそ別の政治性を暗示しているのではないか」ということではないかと勝手に解釈した上で、以下、自問自答いたします。
まず、ちょっと確認をしておきます。
フロネーシスについて、アリストテレス政治学』にはこうもあります。

しかしただ思慮だけは支配者に独得な徳である。というのはその他の徳は被支配者にも支配者にも共通でなくてはならぬようであるが、しかし思慮は被支配者の徳ではなくて、ただ真なる意見だけがそうなのである。というのは被支配者は笛作りのような者であり、支配者はそれを用いる笛吹のような者であるからである。(岩波文庫、p132-p133)

このようにフロネーシスは明らかに支配者・為政者・指導者の徳であったわけです。実に政治的な理念です。
ポリス共同体における、かかる政治的実践知を、なるほどアリストテレスの議論の流れに沿っているとはいえ、まったく非政治的に、形而上学的に読みかえてみせるハイデガーに、いかなる政治性が予感されうるか、とkurahitoさんは問うておられるわけでしょうか(これはまだ自問自答です)。
ハイデガーは『ニコマコス倫理学』の解釈を始めるにあたって、こう言っています(引用は『アリストテレス現象学的解釈』より)。

この論考の解釈では、特殊な倫理的問題構制はひとまず度外視し、もろもろの「理知的な徳」というのが、真正な存在真実化を遂行する可能性をよく駆使しうるうえでのさまざまな様態であるのを明らかにする。(p57)

次はガダマーの感想です(「ハイデガーの初期「神学」論文」前掲書所収)。

全体として特に私の眼についたのは、存在論的な関心の比重が著しく高い点である。これはプロネーシスの分析全体を通しても認められるところで、ために「エトス」の概念が構想文においては、そもそもそれ自体としてはほとんど言及されないでいる。(p118)

このようにハイデガー本人、及び直弟子にとっては、フロネーシス解釈において政治性、少なくとも倫理性が薄められているということの自覚はあったはずです。
もちろん、kurahitoさんのご指摘はその上でなお、呆け中年にも思考力が残っているならば、いま一歩進めてそのことの含意する社会的意味に知恵がまわらないものか、というご叱声と受けとめます。
まず、一般論として、もともと政治的であった理念なり思想なりを、非政治的に読み替える行為にはなんらかの政治性がある、ということは言えます。
例えばよく知られている例では、道家の思想は幾人もの漢初の有力政治家が採用した社会思想であったのに、国家イデオロギーとしての地位を儒家に譲ってからは、今に伝わる隠遁者の思想へと姿を変えていきます。これはものすごく大雑把に言えば、現実政治の外に立つことで弾圧を避けると同時に、無害な思想として体制内での寄生的な延命を図るとともに(墨家のように殲滅されてはかないませんものね)、一方でアウトサイダーの思想的拠点としてある種の政治性(反政治性)を温存させることにもなりました。
これはあまりよい例ではないかもしれませんね。閑話休題
ともあれ、ハイデガーのフロネーシス解釈においても同様のことが言えるか。言えると思います。超俗の身振りは、えてして別の政治性を隠しているものです。ただその政治性が具体的にいかなるものかということについては、はっきりとしたことはわからない。少なくとも私にはわかりません。
ふたたびガダマーの証言を引きます。

アリストテレスによって開かれた形而上学の思索の背後には人間的な生の事実性が控えている−−、ハイデガーが繰り返しこのことをアリストテレスの中からアリストテレスの手段を用いて明らかにしようとするとき、われわれは、そこにハイデガーが自分の歩みだした道を一貫して追究しているのを見るのである。(『アリストテレス現象学的解釈』p118-p119)

これをもじって、ハイデガーによって開かれた存在論の思索の背後には人間的な生の事実性が控えている−−、とも言えそうですが、それをハイデガーの中からハイデガーの手段を用いて明らかにしようとすることなど、私如き浅学には到底かなうことではありません。
お応えになっているかどうかわかりませんが、いま、ハイデガーを精読している時間がありませんので、このあたりで勘弁してくださいますようお願いします。

追記

kurahitoさんのご指摘は、↓こっちについてでした。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090313/1236914741

「いまだない」と「すでに」とは、両者の「統一性」において理解されねばならない。つまり「いまだない」と「すでに」のそれぞれを、自らの一面を特定の仕方で顕在化させたものとして併せ持つようなひとつの根源的な所与性、そこから両者が理解されねばならない。「特定の」というのは、ここで対象となるものがある限定された運動相に置かれているからである。欠如の概念は、右に挙げた抽出物の範疇である。ヘーゲル弁証法は、精神史的にはここに根差している。(p71)

このハイデガーの文章(『アリストテレス現象学的解釈』)を引いて私は「ハイデガー自身はヘーゲルの名前しか出していないけれども、私にはこの引用文を含め、前に引いた二つの引用もあわせて読むと(それは実際には一つながりの段落である)、ベルクソン物質と記憶』の知覚論・行為論が連想される。」と書いたのでした。
それに対してkurahitoさんは「欠如の概念は、右に挙げた抽出物の範疇である。ヘーゲル弁証法は、精神史的にはここに根差している。」というのを重視して、「欠如の件は社会性を含味しているような予感がしました」と指摘されたのでした。
おっしゃるとおりなんです。
アリストテレスからヘーゲルまで線を引くと、もちろん引けますし、むしろそれは正統的な理解だと思いますが、ただ「精神史的に」というと、あいだに中世の普遍論争(実念論vs唯名論)が入ってきちゃいますでしょう?
スコラ哲学ですよ、もう神様に調停をお願いするほかないような泥沼の論争というイメージがあるんですね(間違っているかも知れませんが…)。ハイデガーはもともと神学の出身ですから得意だったようですが、僕は、あれはご勘弁、という気がするんです。おちんちん切られちゃった人もいますしね。
でも、好きな人にはたまらなく面白いんだそうですね。