日本の教育改革

このブログではしばらく教育について発言してこなかったが、最近、気になるニュースを見聞したのを機に、感想をまとめておく。
いま日本の学校教育制度は大きな過渡期にある。いろいろな試行錯誤が行われており、時として改革の名のもとに極端な政策が主張されたりしているが、その底流ははっきりしている。それは国際競争力の強化に資する人材育成をという産業界の要請によるもので、総合職(管理職候補)としての大卒正社員の割合を減らし、非正社員の技術職・一般職の割合を増やすという雇用形態に即した教育制度にするという方向性である。これは教育行政が国民のニーズではなく財界のニーズに応えているという点で噴飯ものであるが、経済のグローバル化によって、産業界が製造拠点を人件費の安い海外に移し、また販売対象も新たな消費の見込める海外を視野に入れているところから既定路線となっている。
これに付随して、単なる語学教育だけでない国際理解教育も求められている(小学校英語など)。これも産業界の要請によるもので、グローバル化時代の企業社会では上司・同僚・部下や顧客が日本人とは限らないからである。例えば、3月25日付け産経新聞によれば、自民党教育再生実行本部は理数教育の充実や大学入試・卒業時でのTOEFLの活用を提言するそうだが、使い捨てのできる技術者と英語のできる営業マンが欲しいという本音がよく透けて見える。
以上が教育格差と呼ばれる現象の基幹部分であり、政策としては新自由主義ネオリベラリズム)と呼ばれる。財界のニーズに応えられそうにない子どもは、かなり早い時点で正社員コースから振り落とされる。日本の学校教育は見かけ上の平等を装うのに巧みなので目立ちにくいが、早いところでは小学校高学年から、遅くとも高校入試の段階で選別が行われている。3月21日付け朝日新聞の記事では、全国の公立小中の保護者6831人にアンケートしたところ「教育格差については「当然だ」「やむをえない」と答えた人の合計」が6割近くになったそうだが、自分の子どもを学校に通わせている保護者はそれだけ敏感に学校の変化を察知しているということなのだろう。
こうした動きはグローバル化によって引き起こされたものだが、新自由主義グローバル化という現象から必然的に導かれる政策ではない。グローバル化それ自体は通信・運輸技術の発展と東西冷戦の終焉という歴史的条件によって出現した状況であって、新自由主義はその状況への対応策の一つにすぎない。グローバル化への対応には他の選択肢もありうるはずだが、それが検討された形跡は乏しく、産業界の敷いた既定路線をあたかも必然であるかの如く後追いしているのが現在の教育改革である。
しかし、公教育とはビジネスエリート養成だけに尽きるものではない。日本国内で暮らす市民に共通に求められる教養(従来の用語で言えば国民教育)を普及するのも公教育の使命であり、新しい国民教育の核をどこにするか、これが一つの争点になっている。歴史教育が大きな論争の対象になるのも、歴史認識が国民教育の新しいあり方にかかわってくるからだ。今のところ、道徳教育を唱える勢力が多数であるが、市民性(シティズンシップ)教育を提唱する識者もいる。もちろんそれ以外の選択肢もありえるし、そもそも歴史認識にしろ、道徳にしろ、市民性にしろ、その内容については議論が分かれている。にもかかわらず、文科省は道徳教育推進の方向に舵を切ったようだ。3月26日付読売新聞によると「道徳教育を学校の正規の教科とする時期を、2018年の学習指導要領改定時から前倒しする方向で検討」を始めたのだという。
本の学校教育における道徳は本質的にいびつである。道徳の内容が学習指導要領によって定められているからである。すなわち、文科省という官庁が国民の規範を決定している。規範的価値の基準は自明なものではない。倫理学では大きく分けても、徳の倫理、義務の倫理、幸福の倫理、責任の倫理、などの立場があって、ある行為の評価について厳しく対立する場合もある。にもかかわらず一官庁が義務教育段階で教える道徳の内容を決定するのは恣意的とのそしりを免れない。現行教育基本法には第2条(教育の目標)に徳目が書き込まれているので、一見するとこれが根拠になるようだが、実はこの徳目は2006年の改訂時に当時の学習指導要領に準拠して書き込まれたものである。つまり日本の道徳教育には学問的根拠はなく、法的根拠は官庁の自作自演なのである。こうした根拠の不明瞭な官製道徳を子どもたちに教えることがグローバル化時代の公民教育として適切か、はなはだ疑問である。
このように、グローバル化への対応についても、国民教育の再編についても、日本の教育改革は、経済界が政府に要求する新自由主義的政策に沿ったものになっている。一方で少数のビジネスエリート養成に教育予算を重点配分し、エリートコースの外に放り出される多数の一般市民の気休めとして道徳教育を強化するという方向性である。
こうした傾向についてはすでに多くの教育学者(例えば藤田英典氏や広田照幸氏など)が指摘していたが、先行した英米の教育改革が失敗している以上、わが国の官僚や政治家にも少しは日本の将来を真剣に憂う気持ちもあるだろうから、それなりに知恵を絞っているに違いなく、まさか学者の予想通りにはなるまいと心のどこかで思っていた。だが、どうやらそれは私の買いかぶりで、かつて教育基本法改悪時に学者たちが予想していた通りになり始めたので、もはや迷いを断ち切ってここに感想を記しておくことにする。最低。