セートーセーの問題

正当性と正統性については、社会学政治学で大事な事柄として説かれているらしいことまではおぼろげながら承知していたが、根がいい加減な人間なもので、それぞれがどういう意味なのか、よくわかっていなかった。
どちらも翻訳語なので英語に直すとスッキリすると教わったこともあるが、なにぶん語学音痴なものでアルファベット表記されるとさっぱり頭に入らない。そのため何度か恥をかいて困っていたが、萱野稔人『国家とはなにか』に次のような見事な説明がなされているのを読んで狂喜した。ISBN:4753102424

正当性においては、正しい目的の観念が暴力を根拠づける。これに対し、正統性においては、正しい行為主体の観念が暴力を根拠づける。どのような目的で暴力が行使されるのかということが正当性においては問題となるのに対し、暴力を行使する者がどのような資格にもとづいてそうするのかということが、正当性においては問題になるのだ。(萱野、p35)

これで年来の宿敵、セートーセーの問題に決着がついた。ああ、そうだったのか、何のためかを問うのが正当性、誰がやったかを問うのが正統性なのか。
正統性の例

支配者がみずからを神の系譜に結びつけるようなケースを考えることもできるだろう。そこでは、神という超越的な審級から統治する資格を授かったという物語によって、支配の正統性が確保される。(p36)

これはよくわかる。王権神授説のことだ。相続の問題が正統性の問題なんだ。

また、国民国家といわれるものも、国家の暴力を正当化するひとつの仕掛けであると考えることができるだろう。国民国家とは、国民として措定された住民全体が国家の権力源泉とみなされるような政治体制にほかならない。そこでは、国民から授権されたものとして、国家は暴力を行使する正統性をもつことになるのである(したがって国民国家においては、国家と住民のあいだにある暴力の格差はあたかも存在しないように表象される)。(萱野、p36-37)

これは選挙だ。ここでいう「正当化」は正当性とは直接つながらないんだな。正統性をもつことによって支配が正当化されている。でも、支配の正当性が問われているわけじゃない、こういう理解でよいのだろう。