ベンヤミン『暴力批判論』11神話的な暴力

「すべての法理論が注目しているのとは別種の暴力への問い」とは、暴力の連鎖を断ち切る力とは何か?ということだろう。
ベンヤミンは「暴力とはいえ、あれらの目的のための合法の手段でも不法の手段でもありえず、そもそも手段としてではなく、むしろ何か別のしかたで目的にかかわるような暴力」(p54)だと言う。
これまで「暴力は、さしあたっては目的の領域にではなく、もっぱら手段の領域に見いだされうる」(p29)として議論してきた条件を自らはずしたわけだ。それなら最初からそうしておけば、とぼやきたくなるところだが、これはやはりベンヤミンとしては慎重に、考え考えしながら書いてきたということだろう。
あるいは、手段として語りえる事柄については、おおよその見通しがついていたので、まずそれを片付けておこうということかも知れず、またあるいは、そしてこれが一番近いだろうが、暴力ならざる暴力とは、「いっさいの法的問題の最終的な決定の不可能性という、異様な、さしあたってはひとを意気阻喪させる経験」の彼方に「一条の光」としておちてくることを示すためであった、とも考えられる。
さて、「ここで問われているような、媒介的ではない暴力の機能」として、ベンヤミンは「憤激」を挙げる。私はかなり怒りっぽいたちなので、よく妻に「なんでそんなことに怒るの」とたしなめられるが、なぜ?とか、なんのために?とかきかれても、腹が立つものはしかたがない。バカにバカといってなにが悪い、と開き直って、その後、一人でしょげかえるのだが、怒っている間は確かに手段とか目的とか、そんなことは考えていない。それを考えて怒るのであれば、それは憤激ではなくて、戒告や譴責である。
ベンヤミンによれば憤激のような暴力は「手段ではなくて、宣言」であり、「この種の宣言のもっとも含蓄のあるものは、何よりも神話のなかに見られる」として次のようにいう。

神話的な暴力は、その原型的な形態においては、神々のたんなる宣言である。その目的の手段でもなく、その意志の表明でもほとんどなくて、まず第一に、その存在の宣言である。ニオベ伝説は、これの顕著な一例をふくんでいる。(ベンヤミン暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)』、p55)

ニオベ伝説

ベンヤミンが神話的暴力の例として挙げたニオベ伝説は、タンタロスの娘ニオベ(下記ではニオベー)が神の怒りにふれて子供を殺される話。オイディプス伝説、アンティゴネーの悲劇と続くテーバイの王族の一連の悲劇の中の一つである。

ニオベーは子供に恵まれたので、自分はレートーよりも子供に恵まれていると言った。レートーはこれに憤って、アルテミスとアポローンを子供らにむけてけしかけた。そして娘の方は家の内でアルテミスが射倒し、息子のほうはキタイローン山中で猟をしているところを、すべてアポローンが殺した。しかし男の子の中アムピーオーンが、女の子ではネーレウスと結婚した年上のクローリスが助かった。(中略)ニオベー自身はテーバイを棄てて父タンタロスの所へシビュロスへ行き、そこでゼウスに祈って姿を石に変えられ、涙が昼夜その石より流れている。
(アポロドーロス『ギリシア神話 (岩波文庫)』p129-p128。文中「射倒し」の「倒」の字は旧字。なお訳注一〇九には「クローリスの本名はメリボイアであったが、兄弟姉妹の殺されるのを見て蒼くなり、そのためにクローリス「蒼白の女」の名を得たという」とある。)

レトというのは、なんと根性悪な女神か、「この方はいつも穏やかで/人間どもにも不死の神々にも優しい」(『神統記 (岩波文庫 赤 107-1)』p54)が聞いて呆れる、と自分の怒りっぽさを棚に上げて憤慨してしまった。
さて、頭を冷やして読み直してみるとニオベが石になった、という話とよく似た話を柳田國男が書いていたのを思い出した。
柳田は「老女化石譚」(『柳田國男全集11』ちくま文庫版所収)で「諸州霊山の麓などに、これも諸国行脚の比丘尼が、石と化して跡を留めたという話」、いわゆる姥ヶ石伝説が数多くあることを挙げ(柳田、p194)、これは伝えられているように、女性が女人禁制の結界を破ったため神罰を受けて石と化したのではなく「むしろその山を信仰した姥・比丘尼の行法と関係のあったもので、往返の道者たちがこれに基づいて石に名づけたのを、その慣行が断絶して後、悪い方にこれを解説するに至ったのだろう」と推理している(柳田、p203-p204)。
似たような話は同じ話か、というと、やはり違う。ニオベ伝説は、神々に呪われたテーバイの一族という文脈の中の話であり、それでなくてもギリシア神話と日本の伝説を無媒介に比較することは、トンデモなく危険きわまりないことなのだが、ニオベ伝説のオチは奇岩の起原説話として後世に作られたものであろうこと、ニオベという女性はおそらくは巫女かそれに類する役割を担っていた人だったのではないかという連想が、どうしてもぬぐい去れない。そうすると、ニオベの子どもたちが神々に殺されたというのも、神事としての犠牲と何か関係があるようにも思えてくる。
閑話休題。ニオベ伝説についてのベンヤミンの解釈は次の通り。

たしかにアポロとアルテミスの行為は、ただの処罰行為と見えるかもしれないが、しかしかれらの暴力は、ある既成の法への違反を罰するというよりは、むしろひとつの法を設定するものなのだ。ニオベの不遜が禍いを招くのは、それが法を侵すからではなくて、運命を挑発するからにほかならない。挑発されたこの闘争において、運命はぜがひでも勝ち、勝って初めてひとつの法を出現させる。(ベンヤミン、同上)

あれれ「ひとつの法を設定する」暴力というのは、法措定的暴力のことではなかったのかな、と思ってとまどっていたら、案の定、次のように言われていた。

もし神話的宣言としてのこの直接的な暴力が、法措定の暴力の親類だと、そればかりか同一物だという証明がなされるなら、問題性は、この暴力から法措定の暴力へ−−さきに戦争の暴力について述べたさいに、たんなる手段として特徴づけられた限りでの法措定の暴力へ−−はねかえる。(ベンヤミン、p56)

それならそうと最初から言ってくれよ(とやっぱり言いたい)。

境界の設定

ニオベの伝説から姥ヶ石伝説を連想したところまでは、まんざらトンデモな脱線でもないらしい。というのは、ベンヤミンが次のようにも言っているからである。

ところで、暴力は不確定で曖昧な運命の領域から、ニオベにふりかかる。この暴力はほんらい破壊的ではない。それはニオベの子らに血みどろの死をもたらすにもかかわらず、母の生命には手を触れないでいる。ただしこの生命を、子らの最期によって以前よりも罪あるものとし、だまって永遠に罪をになう者として、また人間と神々との間の境界標として、あとに残してゆくのだ。(p56)
境界が確定されれば、敵は滅ぼしつくされることはない。ばかりか、勝者の暴力がきわめて優越しているときでも、敵にも権利が認められる。しかも魔神的・二義的なしかたで「平等」の権利が認められる。すなわち、条約を結ぶ両当事者にとって、踏みこえてはならない線は同じ線なのだ。(p57)
ところで、法を認識する上で、境界設定の行為は、もうひとつの点でも示唆にとんでいる。法律とか境界変更とかは、少なくとも太古では不文律だった。ひとは知らずにそれを踏みこえて、贖罪を余儀なくされることがある。というのは、書かれも知られもしていない法律が破られると発動する法の干渉は、すべて、刑罰とは呼ばれずに贖罪と呼ばれるのだから。しかし、知らずに贖罪の手におちる者が不運だとしても、贖罪の登場は、法の精神からすれば偶然ではなくて、運命である。(p58)

これは宗教・民俗的な「境界」、姥ヶ石伝説の場合は霊山の女人禁制の結界と重なる話である。ニオベが石になったという伝説は、ギリシア版姥ヶ石なのだ、少なくともベンヤミンはそういう印象を持っていたはずだ。境界は故・宮田登の妖怪学(『妖怪の民俗学』など)のキー概念だった。それと法措定的暴力がどこでリンクするのかは、また機会を改めて考えよう。
それに当たっても「古代共同体の初期における成文法をもとめての闘争も、神話的な規約の精神にたいする叛乱として理解されよう」(p58)という指摘も重要な問題を含んでいる。

課題

それならそうと早く言ってよ(今日、三回目)。

直接的暴力の神話的宣言は、より純粋な領域をひらくどころか、もっとも深いところでは明らかにすべての法的暴力と同じものであり、法的暴力のもつ漠とした問題性を、その歴史的機能の疑う余地のない腐敗性として、明確にする。したがって、これを滅ぼすことが課題となる。(p58-p59)

それは「不確定で曖昧な運命の領域」に対する闘争でもあるだろう。
これなら、今週中には読み終えられそう。