ベンヤミン『暴力批判論』10非暴力的な合意の手段

これだけすさんだ世の中だと、ベンヤミンならずとも「抗争する人間相互の利害を調整するのに、暴力的手段以外の手段はないのか、という問いが、おのずから口をついて出てくる」(ベンヤミン暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)』、p45)。いや、まったく、それが何より望ましいのはあらためていわれるまでもない。
しかし、これまでのベンヤミンの議論に従うなら、法的手段は、法措定的暴力と法維持的暴力を内に含んでいるのであって、警察だろうが裁判だろうが、暴力的であることは程度の差でしかない。さて、どうするべきか?
この八方ふさがりに思える「暴力的手段以外の手段はないのか、という問い」に対するベンヤミンの答えは、拍子抜けするほど素朴なものだった。

紛争の非暴力的な調停は、そもそも可能だろうか? もちろん可能だ。私人相互の関係を見れば、例に不足はない。非暴力的な和解は、こころの文化が、人間の手に合意の純粋な手段をあたえたところでは、いたるところに見いだされる。すなわち、事実上ひとつ残らず暴力である合法・違法の多種多様な手段にたいして、純粋な手段としての非暴力的手段が対置されうるわけだ。こころの優しさ、情愛、和やかさ、信頼などが、後者の主体的な前提条件である。(ベンヤミン、前掲書、p47)

おいおい、っていう感じである。「こころの優しさ」は、そりゃあ大事さ、尊いものだろう。でも、それですまないから、みんな困ってるんじゃないのか?
もっとも「こころの文化」は「非暴力的手段」の「主体的な前提条件」にすぎず、ベンヤミンもそれだけでどうにかなると思っているわけではないようだ。「それの客観的な出現」は「もっとも広い意味での技術」の領域に現れる。

たぶんそのもっとも基本的な例は、市民の合意の技術とみなされるもの、話し合いだろう。話し合いでは、非暴力的な和解が可能なだけにとどまらず、さらに、暴力を原理的に排除していることが、ある重要な一点で−−つまり、嘘が罰せられないという点で−−はっきりと証明されていなくてはならない。おそらく、嘘を最初から処罰する立法は地上にはないが、このことは、暴力がまったく近寄れないほどに非暴力的な人間的合意の一領域、「了解」のほんらいの領域、つまり言語が、存在することを語っている。(ベンヤミン、p48)

これはずいぶん注意すべき事柄であるように思われる。話し合いですめば警察は要らない、と突っ込みたくなるところだが、むしろ、警察(=暴力)の出る幕のない話し合いこそ非暴力的手段と呼ばれるべきなのだ。そのためには「嘘が罰せられない」ことが必要となる。処罰という暴力が想定された話し合いはもはや非暴力的手段ではないから。
しかし、ここには問題もあるだろう。「嘘が罰せられない」という条件もさることながら、言語を「非暴力的な人間的合意の一領域」とみなしてよいか、ということもある。話し合いは殴る・蹴るといった暴力に比べれば、よほど非暴力的ではあるれるども、言語も社会の約束事の体系である以上、同様に社会の約束事の体系である法に似て、まったく強制力が働いていないかといえばそんなことはない。
言語には、アレを「イヌ」と呼び「ネコ」と呼ばないという名付けにかかわる措定的暴力、「その場合はナオザリではなくてオザナリだろ」という維持的暴力、名辞措定的暴力、言語維持的暴力とでもいうべき力が働いている。これは否定できないことだろう。各人が手前勝手に物事に名前をつけ、いきあたりばったりに言葉を用いていては、いくら話し合っても合意に達しえない。
だから、ベンヤミンの意に背くことにはなろうが、言語を「非暴力的な人間的合意の一領域」として特権化することはできない。そうは言っても、これは原理的な場面で言われることであって、物理的暴力よりはよりマシであることまでも否定するわけではない。ベンヤミンは外交官の活動を「非暴力的な合意の手段」として挙げているが(p53)、実際の武力を用いないとしてもそれが政治交渉である限り、まったく非暴力的とは言えないと思うが、それでも戦争よりははるかにマシである。

ようやく明らかになった問題

さて、先に述べたように、ベンヤミンの言うことに反して言語もまた(原理的な場面では)暴力を含んでおり、けっして「暴力がまったく近寄れないほどに非暴力的な人間的合意の一領域」ではないことを確認することは、むしろ次に挙げるベンヤミンの文章で示される問題設定をより切実なものとする。

自然法や実定法が見てとる諸暴力の全領域のなかには、あらゆる法的暴力のもつ前記の重大な問題性をまぬかれているような暴力は、ひとつとして見あたらない。にもかかわらず、いっさいの暴力を完全に、かつ原理的に排除しては、人間的課題のなんらかの解決を、まして、従来の世界史上のあらゆる存在状況の呪縛圏からの解放を貫徹することは、まだどうにも想像することができないのだから、すべての法理論が注目しているのとは別種の暴力についての問いが、どうしても湧きおこってくる。(ベンヤミン、p53)

この文章に出くわしてみると、ここまでのベンヤミンの議論は「すべての法理論が注目しているのとは別種の暴力についての問い」という問題設定へと読者を導くためのもの、ということになるのだろうか。いや、それどころかこの難渋さは、おそらくベンヤミン本人も試行錯誤しながら考え考え書いてきたのではないか、という印象を持つ。もっともそれは私の愚鈍さの言い訳にすぎないかもしれないが。
ここでいう「別種の暴力」を、非暴力へと向かうよりマシな暴力、と捉えるのは我田引水かもしれないが、いずれにせよここからあとの『暴力批判論』後半の議論は、謎めいた「神話的暴力」と「神的暴力」をめぐる話である。今まで以上の難行苦行が待ちかまえていることが予想されるので、ベンヤミン『暴力批判論』読みは、ひとまずここで中断し、少し他の本を読んでみたい。
コメントをくださったid:kurahitoさん、id:mojimojiさん、ありがとうございました。こんな短い論文をふたたび途中で投げ出す私の根性無しぶりをどうかお許しください。