志水宏吉著『学力を育てる』

以下の記事は、かなりいい加減に書き飛ばしていマース。
忘年会シーズンだからご勘弁。
もう、疲れちゃってサー。アハハハハハハハハハハハハハハハ。
本書は教育社会学の視点からの学力論であるが、一風変わった構成となっている。第一章「学力をどう捉えるか」の前にやや長いプロローグが置かれ、そこで著者が物心ついてから大学に入学して教育社会学という学問に出会うまでの自伝が語られる。
兵庫県の商家の長男として生まれた著者は、学歴は高くはないが勤勉な家風のなかで育ち小・中・高とよき師に恵まれ、東大合格を果たす…、と要約するとなんだか自慢話のようだが、著者の意図はそうではない。
「学力」というと、あらかじめ個人の内側に秘められた力のようなイメージで語られがちだが、実は「その人の『学力』は、その人物の経験の総体から導き出される」ことを、自らの経験を材料に提示したのだ。
その上でこの「経験の総体」たる学力を、根である「意欲・関心・態度」、幹や枝である「思考力・判断力・表現力」、葉である「知識や技能」が一体となったものとしてイメージし、それを「学力の樹」と名づける。教育とはこの「学力の樹」を育てる営みなのだ、と著者はいう。
「学力の樹」という視点から見て「学力低下」問題はどう考えられるか。著者は苅谷剛彦らとの共同研究の成果を踏まえて、全般的な学力の低下については目くじらを立てるほどではないが「できる子」と「できない子」に二極分化する傾向が強まっており、「問題なのは,子どもたちの全般的な学力の低下なのではなく、「できない」層への下支えがきかなくなってきていることである」という。
この学力の階層間格差をどうするか、が今後の教育の課題。

以下、脱線気味の感想

学校が競争主義に走る一部エリート校と、低学力・低賃金に甘んじられる「実直な人格」を育てる底辺校に二極化しつつある傾向は、苅谷剛彦らによってもすでに論じられているところです。
私が知人の学校関係者から聴いた話によると、現場の教員の中にも、進路指導にあたって、生徒をどちらかに振り分けてしまおうとする傾向も見られはじめているようです。
底辺校は「丁稚養成所」にすぎません。そこでなされる「心の教育」は、夢を限定させること、自分の能力開発の可能性をあらかじめお手軽な方向にオリエンテーリングしてしまうことです。
私と同世代(60年代生まれ?)の人間は、高校までは「普通教育」がふつうでした。ここでいう「普通教育」とは、平たくいえば、つぶしの利く全方位の教養教育だったわけです。
だから、高校まで行ければ、具体的な進路はその後考えればよかった。
高校を出て事務系の職場に就職するもよし、専門学校で技能を身につけて専門職になるのもよし、さらなるモラトリアムを求めて大学に進学するのもよし、というわけで、たいていの人にとって人生の最初の大きな選択は高校卒業時の進路選択だったわけです。
いわば、私どもの世代は「自分探し」のためにたっぷり時間をかけられる世代だったのです。
ところが、いま進行しつつある教育制度の変更は、この決定の時期を中学卒業段階に引き下げようとしています。さらに言えば、小学校卒業段階まで引き下げてしまえ、と、アブナイ本音をいう人もいます。
戦前ならいざ知らず、現代の社会は、小・中学生レベルの知識や経験で、自分の進路について責任を持って決められるほど単純な社会ではありません。
こうなると、進学競争なんてバカバカしい、と思っている子どもほど、進学しなければ自分の進路選択について自由に判断できるポジションを確保できない、という逆説的な状況に置かれることになる。
これからの子供たちは、意識するしないにかかわらず、とんだストレスを抱え込むことになると思います。
現在20代くらいの、過渡期の世代にとっては、自分探しをしているうちにハシゴをはずされてしまったわけですから、やる気を出せといわれても困るでしょう。
近頃、『ニート』や『下流社会』が話題になっているのも、こうした背景があるのでしょう。
意に満たないところもありますが、長くなりすぎましたのでとりあえずこのへんで。

追記

問題は自分の素質の見極めの時期が、画一的に決められてよいものかどうかということです。
私は、学歴や学力だけで人間が判断されてたまるものか、と思っていますし、私自身が学校になじめない、孤立しやすい子でしたから、なおのことそう思います。
けれども、若い世代に、夢をあきらめることを推奨するような教育や、自分の夢に向かって試行錯誤する機会を与えないような教育が、制度化されたとき、どういう社会になるのか、と不安に思わざるを得ません。

さらに追記

以上でいう「学校」は、小中学校に限定した話です。
私は、学校が「夢」や「希望」を育てるべきだ、と主張しているわけではありません。むしろその反対です。学校は「夢」や「希望」の領域に関与すべきではない、というのが私の意見です。
「夢」や「希望」を育てる契機は、学校の外にあるかも知れない。学校は「夢」や「希望」を抑圧することの方が多い。ただ、一般論として、学校は大半の生徒が一日の大部分を過ごす環境ですから、学校のなかで「夢」や「希望」を育む契機を自ら見つける子どもも、まったくいないわけではないでしょう。ですから、「夢」や「希望」のソースを、学校の外部のみに限定することも不自然です。そう考えてしまうと、学校外学習の機会に恵まれない子どもたちはまったく可能性がないとレッテルを貼ることになってしまう。
しかし、逆に、学校こそが「夢」や「希望」を育てうる機関であるとするのもおかしな話です。人間は千差万別なのに、ナショナル・スタンダードの「夢」や「希望」があるとしたら、それは結局イデオロギーの別名ということになるでしょう。
私が主張しているのは、学校は生徒たちの「夢」や「希望」を抑圧したり、選別したりする機関であってはならない、ということにすぎません。

求む、添削指導

annntonioさん、よろしくお願いしまーす。
http://d.hatena.ne.jp/annntonio/20051221/1135121569