「異義申し立ての「暴力」というものを、どのように捉えるのか」

id:t_keiさんの記事から抜き書き。
当該記事のメインとなる主張ではないし、粗忽に読むと乱暴な議論と誤解されてしまいかねないから、ご本人にしてみれば迷惑かも知れないが、大事な問題提起なので。

ただ、誤解を恐れずに言えば、僕は異義申し立ての際に「暴力」とされるものを、必ずしも否定しない。僕は「その時点での多数の合意」を逸脱するような行為を、否定的なものだとは思わないし、そのような狭いものとして人間の社会を捉えようとも思わない。

以前、私自身もベンヤミン「暴力批判論」を読みながらグチャグチャ考えたことがあったが結論は出ないままであった。
x0000000000さんの「差別する自由?を考える前に」と題された記事http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060217/p1#cに押しかけ、「代弁」の暴力性についてご高見をうかがったのも、同じ関心による。
現実問題としては、やむにやまれぬときは手段の是非を問うているヒマのない場合もある、とは思うのだが、非常事態にはなんでもあり、という判断停止状態におちいらないためにも、やむににやまれぬ場合に直面していないときにこそ、こうしたことを考えておくべきではないか。それこそが非常時に備える有効な道だと考える。備えあれば憂いなし。