危険なソーセージ

フランクフルトといえば、なにはさておきまずはソーセージ。
私もたまに近所のスーパーで安売りしているのを買って、玉ネギ・ニンジン・ニンニク・セロリ・カブなどといっしょに煮込んで晩のおかずにすることがあります(カブは大ぶりに切って最後に入れるのがコツ)。これにベーコンとジャガイモの炒め物、即席ザワークラフト(キャベツの酢煮)を添えると、洋食好きの妻が喜ぶので、秋から冬にかけては重宝な献立。
ところが最近、この美味しいソーセージの産地に怪しげな疑惑が生じているという。
http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20061014#1160828600
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20061018/p2
私は頭が悪くてよくは知らないのですが、幸いにもというか不幸にもというか、大学時代の元同級生がいまだにフランクフルト学派の研究をしており、ときおり誰も読まない紀要論文を送りつけてくるので、それがソーセージ密造業者組合のことでも、陰謀をたくらむ謎の秘密結社でもないことくらいは聞きかじっていました。
とはいえ、元級友の論文はドイツ語混じりの悪文の上、私は近ごろとみに物忘れが激しくなってきたので、フランクフルト学派とは何かについては『現代用語の基礎知識』に書いてある程度のことしか思い出せません。書棚には学生時代に買った『啓蒙の弁証法―哲学的断想 (SELECTION21)』が積んでありますが、あまり読んだ形跡はなさそう(読まなかったかどうかもおぼえていない始末)。
ただ元級友の論文から、ハーバーマスが討議倫理学ということを言いだしていることを知るのみです。
そこでふと気づいたのですが、もしフランクフルト学派陰謀論者の言うことが正しければ、いまとんでもないことが進行しているということです。
http://blog.thirdvalue.com/?eid=382921によれば、

 9月7日の朝日新聞に、「無作為に選ばれた『普通の人』が討論 民主主義の新回路?」という記事が掲載されていました。無作為に抽出した市民に参加を呼びかけ、出席した市民が社会問題について討議を行うという、「市民討議会」や「討議型世論調査」と呼ばれる試みを取り上げたもので、記事の中では、
 1. 立川青年会議所主催の「市議会と市民のかかわり」をテーマにした市民討議会
 2. 三鷹青年会議所三鷹市の共催による「子どもの安全安心」をテーマにした市民討議会
 3. 経済産業省の委託で政策科学研究所が実施した「地球温暖化」をテーマとした討議型世論調査
 の3つが紹介されています。
 実はこれらの試みは、ドイツを中心に理論化され、かつ実践されつつある「討議デモクラシー」という考え方に基づくものです。

とのこと。これは陰謀論者から見れば、「デモクラシーなどと姑息にカモフラージュしているが「討議デモクラシー」とは、いかにも闘争を好むサヨクらしい表現ではないか。ふつうに考えればハーバーマスの討議倫理学とも無関係ではあるまい。しかも、これを報じているのはかの朝日新聞。これはきっとアカの陰謀だ。青年会議所経済産業省フランクフルト学派に洗脳されている!怖いですねぇ」と、まあこういうことになるのではないかと思われるのです。
下手な冗談はさておき、もしかしたらこうした試みは、ある特定の党派の意向を鵜呑みにする人にとっては本当に目障りなものに映るかもしれません。
前掲記事では「討議デモクラシー」の特徴を次のように説明しています。

 この数年、既存の代議制デモクラシーを補う制度として、政策形成過程におけるパブリックコメント制度や住民投票制度など、いわゆる「参加デモクラシー」が定着しつつあります。確かにこれらの制度は大きな意義を有していますが、それでもそこで得られる結果は、いまだ「個人の選好を単純集計したもの」にすぎません。そこで提唱されるようになったのが、市民相互の「討議」と、そのプロセスによって得られる「熟慮」によって「公共の意見」を形成し、政策につなげていこうという「討議デモクラシー」なのです。

この考え方からすると、マスコミなどが行う世論調査の結果を「世論の支持」として誇ることはできなくなります。それは「個人の選好を単純集計したもの」にすぎず、「討議」と「熟慮」による「公共の意見」の形成にこそ民主主義の意義があるとなるからです。
こうした傾向が拡がると、エーコが原ファシズムの特徴として挙げた質的ポピュリズムid:kurahitoさん命名)を阻害しかねません。http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20061011#1160546991
質的ポピュリズムにとっては、討議と熟慮によって政策が変更されたらそれこそたいへん。これはなんとしても食い止めねばならない、やはりフランクフルト学派の陰謀だと言っておこう、ということになるのではないでしょうか。

オチがないので加筆

つまり、ある意味では、やっぱり彼らは正しい。たとえその主張がブキャナン『病むアメリカ、滅びゆく西洋』の妄説の焼き直しだとはいえ、フランクフルト学派は彼らの個人的選好に反するものを含んでいるからだ。その動物的勘はすごい。
だからルーマンライヒフランクフルト学派だ(そのうちアーレントも含められるだろう)、違っていたっていい、俺の嫌いなものをフランクフルトと呼ぶことに決めたんだ、みんなみんなマルクス主義の仮面なんだ(ドイツつながりで?)、奴らは陰で結託してアカデミズムのポストを牛耳っているんだぁぁぁぁ!(女教師id:terracaoさん風に)
こういうことですから、もうどうしようもないんじゃないかなあと思います。
ちなみにフランクフルト学派の研究を続けている私の元級友は、もうすぐ五十に手が届こうかという歳なのに、まだ非常勤講師です。
ちょっと勝手に宣伝しといてやろう。

討議倫理学の意義と可能性

討議倫理学の意義と可能性

ヒマと好奇心をお持ち合わせの方は読んであげてください。