10月28日付け朝日新聞社説はやはり疑問だ

10月28日付け朝日新聞社説「教育基本法 改正案はやはり疑問だ」http://www.asahi.com/paper/editorial20061028.html#syasetu1(以下、「朝日新聞社説」と略記)についての感想。

なぜ「疑問」なのか

まず、この社説のタイトルに疑問を感じた。「教育基本法 改正案はやはり疑問だ」とあるが、いったい何が疑問なのか。この件についてこれまでよく知らなかったような人が、はじめて問題の重大さに気づいたというのならともかく、「やはり」とある以上、かねてから疑問を抱いていたことは間違いない。
この朝日新聞社説の筆者は、教育基本法改正案についてかねてより疑問を抱いていたにもかかわらず、法案が提出されたから既に半年、ことここに至るまでその疑問を解決しようとはしなかったのか。そうだとしたら、ジャーナリストとしてはかなり怠慢の部類に入るだろう。そんな怠惰な記者の書いた今さらながらの疑問点など読むに値するものとはとうてい思えない。
しかし、短気を起こすのはやめて、それ以外の可能性を考えてみる。記者の怠慢以外に、今さらのように「やはり疑問」と銘打つ理由があるとすれば、本当にいくら考えても是非を判断できないほど複雑な問題であるか、それとも、おもてだって賛否を明らかにできない事情があって言葉を濁しているかのいずれかであろう。いずれであっても大問題である。どちらかであるかは本文を読んでみないとわからないので、以下、そのことを念頭に置いて本文に挙げられた「疑問」を抜き出してみる。

問題のすり替え

朝日新聞社説が挙げる第一の疑問点は次のようなものである。

 いまの教育に様々な問題があるのは確かだ。学力が下がっている。いじめや不登校は絶えず、荒れる学校は少なくない。しかし、そうした問題は教育基本法が悪いから起こるのか。教育の問題を法律の問題にすり替えていないか。きちんと吟味した方がいい。

これは学校で起きている諸問題の原因は教育基本法にあるのか?という疑問である。これについてはすでに多くの人が「きちんと吟味」している。少なくとも学力低下、いじめ、不登校については、教育基本法とは無関係である。ついでに言えば少年犯罪も最近話題の不履修問題も関係ない。したがって「教育の問題を法律の問題にすり替えていないか」と疑問形で書く方がおかしい。これはあからさまな問題のすり替えである。
ちなみに、かつて現総理が少年犯罪の激増は教育基本法のせいだと発言したが、あれは教育制度の原則を定めた現行教育基本法と、敗戦前の教育理念を訓示した教育勅語との性格を混同したために起こる誤解である上に、質の悪いブレーンにふきこまれたのだろうが、少年犯罪が激増しているという虚偽の想定をもとにしているのだから話にならない。
なお、学力低下についても、はたして最近の生徒・学生の学力が低下しているといえるかどうかについては疑わしいと論ずる専門家も多い。たとえ本当に学力が低下していたとしても、それがここ数年、あるいは十年ほどのことだとしたら、なおのこと戦後すぐに制定された教育基本法のせいではないのは明らかである。

画一化と競争は避けられない

次に朝日新聞社説が疑問点としてあげるのは次のようなことである。

 「愛国心」の問題もある。国を愛する心は人々の自然な気持ちであり、なんら否定すべきものではない。だが、法律で定めれば、このように国を愛せと画一的に教えたり、愛国心を子どもに競わせたりすることにならないか。民主党案も表現は異なるが、愛国心を教室で教えようとする点では大きな差はない。

愛国心について法定すれば「このように国を愛せと画一的に教えたり、愛国心を子どもに競わせたりすることにならないか」という疑問である。マンツーマンの個人教授ならともかく、学校における一斉授業で教えれば画一的にならざるを得ないし、評価の対象となれば競争はさけられない。
それに評価はなにも児童・生徒を対象にしなくてもよい。効率よく愛国心を教えているかどうかについて教師を評価すればすむことである。評価する以上はその基準は一律でなければならず、そうなれば愛国心の表現の仕方も画一的にならざるを得ない。
かつて文部省は「個に応じた指導」というスローガンを掲げたこともあったが、それは結局、進度別指導のことに過ぎなかった。ゴールは同じなのである。だから、仮に「個に応じた愛国心指導」が行われたとしても、その内容が画一的になるだろうことは明らかである。

心のあり方にかかわる徳目を法律で定めていいか

朝日新聞社説は第三の疑問点として次のようなことを挙げている。

 政府の改正案で掲げた「教育の目標」は、愛国心だけではない。道徳心、伝統と文化の尊重など、20余りの徳目が並んでいる。そうした心のあり方にかかわる徳目を法律で定めていいか。愛国心と同じように画一的に教えることにつながらないか。これも気がかりだ。

「心のあり方にかかわる徳目を法律で定めていいか。愛国心と同じように画一的に教えることにつながらないか」という疑問であるが、画一的になるだろうことは前述の通り。仮に画一的ではない教育が行われ得たとしても、「心のあり方にかかわる徳目を法律で定めていいか」どうかを逡巡する理由がわからない。
それとも別に「心のあり方にかかわる徳目を法律で定めていい」かもしれない理由があるのだろうか。あるとすればそれは思想統制を是とする方向であろう。

変えなければできない政策

朝日新聞社説は、次のような第四番目の疑問を挙げている。

 基本法を変えるとすればどこなのか。変えなければ、できない政策があるのか。そうした肝心なことで国民の一致点がまだないということだろう。

「変えるとすればどこなのか。変えなければ、できない政策があるのか」、まことに愚問である。現在の教育にとって何が必要か。それが朝日新聞社説が冒頭に挙げた問題、学力低下、いじめ、不登校などについての対策のことであれば「変えなければ、できない政策」などない。これは「国民の一致点がまだない」とかどうとかいうことではなく、変える必要はないし、変えても解決できない、という単純な理由からである。
どうやら朝日新聞社説の記者は、教育基本法を制度上の原則ではなく、教育理念を訓示した勅語的な性格のものという誤解を、現総理と共有しているのではないか。
しかし、もし教育基本法が、ある特定の立場の人々の実現したい政策の邪魔になるのだとすれば、「変えなければ、できない政策」はある、と言わなければならない。それがいかなる政策であるかを読者に提示し、判断材料として提供するのが社会の木鐸を自認する新聞社の使命であろうに、朝日新聞社説はその役割を放棄しているようだ。
ちなみに与党サイドが、教育基本法改定によって実現したいこととしては、自民党の「教育基本法改正Q&A」http://www.jimin.jp/jimin/seisaku/2006/kyouiku/qa/q16.htmlでは、次の三点がうたわれている。

1. 自民党にとって、今回の教育基本法改正のポイントは、次の3点にあると考えています。
(1) 戦後教育で不十分であった教育の理念の確立
教育の目標として、「豊かな情操と道徳心」、「公共の精神」、「伝統と文化の尊重」、「我が国と郷土を愛する態度」を明示

(2) 教育行政における国の役割の明確化と教育振興
「教育の機会均等と教育水準の維持向上」を国の役割として明確にし、必要な財政措置を規定
教育施策を推進するための「教育振興基本計画」の策定を義務付け

(3) 教職員団体による教育の「不当な支配」の排除
教職員団体の不当な介入の根拠を与える規定の一掃

国民の生活規範の法定、教育についての権限の行政府への集中、批判勢力の一掃、ほかに形容のしようがあるのだろうか。

子どもの問題なのか

さて、朝日新聞社説のいう「疑問」は、以上に見てきたように、今さらもったいぶって問うまでもないシンプルなものばかりである。判断に迷うような複雑な問題ではなかった。そうすると、なぜ「やはり疑問だ」などと奥歯に物の挟まったような言い回しをするのだろうか。
朝日新聞社説は、問題提起にもならない「疑問」を並べた挙げ句、次のようにこの文章を締めくくっている。

 日本の未来を担う子どもをどう育てるか。成立を急ぐ余り、大きな方向を誤ってはならない。

つまり、この問題は朝日新聞社説にとって「日本の未来を担う子どもをどう育てるか」という問題として捉えられている。「やはり疑問だ」などと、どうも煮えきれないと思っていたら、ここに考え違いがあったのである。
小・中学校の児童・生徒に対して愛国心道徳心、伝統と文化の尊重など、20余りの徳目を教えることなど、すでに学習指導要領によって定められている。つまり義務教育段階では実行済みの事柄ばかりだ。だから、教育基本法を変えることで新たな影響が生ずるとしたら、それは「日本の未来を担う子ども」以外の人々に対してである。
朝日新聞社説はこの点、この法律の改訂が誰に対して影響を及ぼそうとしてなされようとしているのかについての洞察がまったく欠けている。教育だから子ども相手なんだろう、くらいにしか思っていない様子だ。そうすると、いきおい問題領域の圏外から発言する格好になるので遠慮がちな物言いを選んだのだろうか。
実際は違う。教育基本法は小・中学校の教育理念を示す法律ではなく、広い意味での教育全般と政府との関わり方を規定した法律であるから、その影響は社会生活の随所に及ぼされる。それは、どうやら国会ではろくに審議されていないらしい後半部分に集中的に現れている。

学校に逃げ場はない

与党案第六条では、学校について次のように言われている。

第六条 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

ここでいう「法律に定める学校」には現在の国公立諸学校のほかに学校法人による学校のすべてと、今後追加されるかもしれない法律で認可されなければならない学校のすべてが含まれる。そのすべての学校において「教育の目標が達成されるよう」「体系的な教育が組織的に行われなければならない」と言われる。「教育の目標」とは、当然、この与党案第二条が定める「教育の目標」である。
「教育の目標」については、朝日新聞社説が数えているように「20余りの徳目」があるが、先述のように与党がこの改訂によって実現したいものは「豊かな情操と道徳心」、「公共の精神」、「伝統と文化の尊重」、「我が国と郷土を愛する態度」の四つである。そのほかは与党案起草者にとっては修飾に過ぎないとみてよいだろう。
人によっては、これらの中には賛成できる点もあると思う人もいるだろう(朝日新聞社説もそう考えているようだ)。いいところもあるのだからそれを活かせば、と思わないでもないが、「体系的な教育が組織的に行われなければならない」とある以上、この「教育の目標」を取捨選択したりする自由はない。これは教育をする側に対してだけではなく、教育を受ける学生・生徒についても同じだ。「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない」。
だから、小学校から大学までの教育機関において教材として使用される新聞・雑誌・書籍の扱いについても、「豊かな情操と道徳心」、「公共の精神」、「伝統と文化の尊重」、「我が国と郷土を愛する態度」によるバイアスがかかってくるだろう。

教師でも学生でもなく父母その他の保護者でもなくても

この「教育の目標」は、学校だけではなく、家庭や社会教育の場面にも影響する。

(家庭教育)
第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。
(幼児期の教育)
第十一条 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。
(社会教育)
第十二条 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。
(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)
十三条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

私のように、教師でも学生でもなく父母その他の保護者でもない、学校教育から遠く離れているような人間でさえ、「図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設」は利用するし、「地域住民」である。社会教育施設における「学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法」に「教育の目標」(「豊かな情操と道徳心」、「公共の精神」、「伝統と文化の尊重」、「我が国と郷土を愛する態度」)にそったバイアスはかかってくる(例えば図書館におかれる新聞・雑誌・書籍の扱い)だろうし、「地域住民」としての「教育におけるそれぞれの役割と責任」のあり方も「教育の目標」と無関係に「自覚する」ことはできないだろう。
文言があまり変わらなかったので見過ごされている政治教育と宗教教育についても、当然同じことが言える。
さて、こうしてみると、この法律に無関係でいられるのは、教師でもなく、生徒・学生でもなく、親・保護者でもなく、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の利用者でもなく、日本国内のいずれかの地域住民でもない人だけである。朝日新聞記者のみ除外し、言論の自由を認める、とはどこにも書いていない。
これが思想・信条・学問・言論・表現の自由の制約につながらないと考えるならば、よほどおめでたい頭の持ち主(=朝日新聞社説)としか言いようがない。

なぜ「やはり疑問」だったのか

要するに、朝日新聞社説は、現下の教育問題の因果関係と教育基本法の性格についての誤解を、改訂推進派と一部共有しているがゆえに、与党案が自由権の根本を制約するものであることに気づきながら判断に迷った。
迷いながらも、問題の焦点を子どもの領域に限定することで、その迷いの解決を避けようとした。こうした逃げの姿勢が、今さらながら「やはり疑問だ」という言葉の書かれた背景ではないか。
以上、朝日新聞社説への腹立ちまぎれに長々と書き散らしたが、私の懸念することの核心についてはkaikaiさんがうまいことを言っているので、それを引いて締めくくりとする。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061029/1162080915

 与党、民主党両党が提出している教育基本法改正案の問題点は、私的領域で形成されるはずの人間の思想・信条を法律という公的な領域において瞬時に“選択”させることにある。
(中略)
教育基本法改正案では「「法」が済し崩し的に「私的領域」に入ってきて、人々の振る舞いを「内」側からもコントロールする」ことになり、「人々が自らの生き方に適した“価値観”を自由に育める余地が縮小していく」ことになる。

蛇足を一つ。kaikaiさんの言うとおりなら、与党案の言う「公共の精神」とは公私混同の最たるもので、公共とは声の大きなものの私ということになってしまいはしないだろうか。