学習指導要領

http://d.hatena.ne.jp/kechack/20080320/p1で知った「【正論】高崎経済大学教授・八木秀次 教育基本法の理念反映せず」という記事を読んだ。
kechackさんは「くだらないので細かい部分には触れない」とおっしゃっていて、それはそれこそ【正論】なのだが、私はくだらない話が大好きなので細かい部分に触れたい。
というか、ムシャクシャしているので八つ当たりをするだけだけれども。
まず八木氏は次のように言う。

 文部科学省は先月、学習指導要領の改訂案を発表した。改訂は(1)教育再生会議が提言した「『ゆとり教育』の見直し」(2)教育基本法・学校教育法の改正による新たな「教育の目標」の具体化、という2つの要因によるが、何れも抜本的な改善には至っておらず、後退した個所さえある。

文部科学省は先月、学習指導要領の改訂案を発表した」というのは事実であるが、「改訂は(1)教育再生会議が提言した「『ゆとり教育』の見直し」(2)教育基本法・学校教育法の改正による新たな「教育の目標」の具体化、という2つの要因による」というのは事実誤認である。この時期に学習指導要領を改訂することは、教育再生会議が何を言おうが、教育基本法・学校教育法の改正がどうなろうが、それらとは直接の関係はなく予定されていたことである。学習指導要領は、ほぼ10年単位で見直されることになっていることを知らないのだろうか。
ちなみに文科省のホームページには「教育課程部会では、「中央教育審議会答申」のとりまとめまで、第3期及び第4期を通じ、学習指導要領について教育課程部会を60回、小・中・高等学校部会を16回、各教科等ごとの専門部会を125回開催し、審議を行ってきました」とある。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/process/index.htm
第3期中教審は平成17年(2005年)から始まっている(第3期第1回の教育課程部会は2005年4月27日開催)ので、この頃から学習指導要領の改訂作業は始まっていたわけだ。当時は小泉内閣の時代であり、当然、教育再生会議もなければ、教育基本法も改正されていない。
八木氏が「後退した個所」(「個所」は原文のママ。箇所?)と言うのはなにか。

 授業時間数の1割増で「ゆとり教育」脱却と見る向きもあるが、「ゆとり教育」の根本理念である「『生きる力』をはぐくむ」は、「主体的に学習に取り組む態度を養う」との文言が加わり、むしろ強化されたとの印象を受ける。

これはまったくその通りである。別に文科省も隠しているわけではなくて、ホームページで「現行学習指導要領の理念である「生きる力」をはぐくむこと この理念は新しい学習指導要領に引き継がれます」と堂々と謳っている。http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/idea/index.htm
この公然の事実をあらためて指摘することで八木氏が何を言いたいのか見当がつかない。もしや「主体的に学習に取り組む態度を養う」という言葉が気にくわないのだろうか?

 道徳教育も、現行の特設「道徳」を維持しており、教育再生会議の提言した「徳育の教科化」を否定した格好だ。「道徳教育推進教師」の導入など、道徳教育の強化を打ち出した点は評価できるが、抽象的な理念の羅列で、教材の例示がなく、実践段階での実効性は怪しい。

学習指導要領の道徳編は確かに道徳理念を羅列しているが、その記述はけっして抽象的ではない。
たとえば、中学校道徳にはこうある。

地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し、社会に尽くした先人や高齢者に尊敬と感謝の念を深め、郷土の発展に努める。

私にはかなり具体的と感じるのだがどうだろう。これで抽象的というなら、それこそ箸の上げ下ろしまで指図するようなことになってしまうのではないか。
どうやら八木氏は「教材の例示」がないことにご不満のようだが、小学校高学年で22項目、中学校で24項目ある徳目のそれぞれに、道徳のお手本となるような教材を例示せよと言うのだろうか。そんなことをしたら、指導要領がそのまま道徳の国定教科書になってしまう。
余談だが、八木氏が「評価できる」とする「道徳教育推進教師」って…、このネーミングのセンスはすごいなあ。
まるで学園マンガの悪役みたいじゃないか。
閑話休題
続いて、伝統と文化の尊重もやり玉に挙げられる。

 教育基本法が打ち出した「伝統と文化の尊重」は、「伝統と文化を継承し、発展させ」との文言が新たに加わり、音楽で共通教材として現行より多くの文部省唱歌が取り上げられる点は評価できる。国語で古典学習を奨励したことも評価できるが、教材の例示がなく、具体性に欠ける。報道された「桃太郎」「因幡の白兎」などの例示はない。問題は社会科で、加わったのは小学校6年生の歴史の「狩猟・採集」という文言と「代表的な文化遺産を通して学習できるように配慮すること」という部分くらいだ。縄文時代を学んで「伝統と文化を尊重する態度」が育つとは思えない。

音楽については「現行より多くの文部省唱歌が取り上げられる点は評価できる」とし、国語については「「桃太郎」「因幡の白兎」などの例示はない」とご不満だ。やはり、八木氏は具体的な例示がお好きなようだ。教育内容を細部まで政府が決めるべきだ、と、そうお考えのご様子である。
それにしても「縄文時代を学んで「伝統と文化を尊重する態度」が育つとは思えない」とはとんだ言いがかりで、「「狩猟・採集」という文言」が含まれているのは次の文脈である。

ア 狩猟・採集や農耕の生活、古墳について調べ、大和朝廷による国土の統一の様子が分かること。その際、神話・伝承を調べ、国の形成に関する考え方などに関心をもつこと。

「狩猟・採集や農耕の生活」が縄文時代弥生時代を意味するのであれば、縄文時代まで大和朝廷の成立に関連させて教えようという、かなり無茶な要求になっている。よく言えば皇国史観である。復古主義者ならもろ手をあげて賛同してくれてもいいはずなのに、文句を垂れるとはどうにも解せない。
もっとも、同氏のお好きな文部省唱歌は、たかだか明治以降の創作物であるから、同氏の尊重したがる伝統というのもその程度の底の浅いものなのだろう。

 教基法が打ち出した「わが国を愛する態度を養う」には歴史学習の充実が必要だが、中学校社会科歴史は問題が多い。例えば、古代の部分で「東アジアの文明の影響を受けながらわが国で国家が形成されていったことを理解させる」と記述するが、国家形成におけるわが国の主体性が希薄だ。むしろわが国は中華文明とは異なる1つの独立した文明であることを理解させるべきだ。関連で言えば、改訂案は「『世界の古代文明』については、中国の文明を中心に諸文明の特色を取り扱い」とするが、なぜ、「中心に」とまで書く必要があるのか。現行は「中国の古代文明を例として取り上げ」にとどまっている。その他、多くの点で東アジアとの関係が強調され、中国への配慮が見え隠れする。わが国の対外的自立を宣言した聖徳太子が「内容」から注に当たる「内容の取り扱い」に格下げされたのも不可解だ。

改訂案が「『世界の古代文明』については、中国の文明を中心に諸文明の特色を取り扱い」としたことの意味が分からないらしい。たぶん「中心に」という語句に逆上して「中国文明が諸文明の中心にある」というようなニュアンスを勝手に読みとったのではないか。
「中国の古代文明を例として取り上げ」としていたのを「中国の文明を中心に諸文明の特色を取り扱い」としたのには、従来の表現では、中国の古代文明「だけ」を例として取り上げればよいと読まれかねないからである。これを「中国の文明を中心に諸文明の特色を取り扱い」としたのは、中国文明は歴史的に日本とのかかわりが深いのでこれは必ず取り上げるがその他にもギリシアやエジプトなど他の古代文明も取り上げるように、というニュアンスで読むのが、一般的な日本語読解力のあるものの感覚というものだろう。
この変更は、これまで学習指導要領は、余計なことは教えるなといういわゆる「歯止め規定」として長らく機能してきた経緯があったからで、ゆとり教育が始まった前回の改訂の頃からこの方針は転換され「ミニマム」(最低基準)だとされてきたが、方針転換がいまだ徹底されていないと文科省サイドは感じていることを示している。
なお、文科省のホームページにはこんな想定問答まで掲載されている。

Q 学習指導要領の「基準性」という考え方に変更はありますか。
A 変更はありません。平成15年に、学習指導要領はすべての子どもに対して指導すべき内容を示す基準であること(基準性)を明確にし、各学校は子どもたちの実情に応じ、学習指導要領に示していない内容を加えて指導できることがはっきりしました。今回の改訂においては、さらなる明確化のために「…は取り扱わないこと」とするいわゆる「はどめ規定」の見直しを行うこととしています。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/qa/index.htm
つまり、「中国への配慮」とか、この手の人のお好きな外交ゲームごっことは関係がない。
「東アジアの文明の影響を受けながらわが国で国家が形成されていった」というのも、最近の歴史学上の通説を反映してのことにすぎないだろう。
そして、頭が痛いのは次の箇所である。

 イデオロギー上の後退もある。「中世の日本」に関して現行は「『農村』については、徳政令一揆について網羅的な取り扱いにならないようにするとともに、それらの内容に深入りしないようにすること」と記述し、階級闘争史観への歯止めとなっていたが、削除された。大日本帝国憲法の評価は「講座派」の歴史観が最も顕著に反映される部分だが、「『大日本帝国憲法の制定』については、これにより当時のアジアで唯一の立憲制の国家が成立し議会政治が始まったことの意義について気付かせるようにすること」という部分も消えた。「天皇制絶対主義」を強調した教科書記述の復活が懸念される。

いつの時代の話をしているのだか。
この人は、いまだにフランクフルト学派の手先が文科省を陰で操っているとでも思っているのだろうか。
今どき、中世の「徳政令一揆」について階級闘争史観で語る人なんて、わざわざ探さなければ見つかりやしない。網野史学以前の話だろう。「講座派」って、どこにいるんだ?
「「天皇制絶対主義」を強調した教科書記述の復活が懸念される」って、教基法が愛国心をうたっている以上、逆の意味で懸念される。
なんだか、文科省の代弁者になったような気分がしてきたので、揚げ足とりもこのへんにしておくが、教師でも教育学の研究者でもない私のような呆け中年ですら容易に気がつくことも、この人は弁えておらず、おそらくは自分の無知に気づかないまま発言していることがよくわかる。
この人は私と同世代のはずだが、よほどアナクロな情報環境の中で自己形成をとげてしまったのだろうか。

追記:桃太郎

ちなみにボーガスニュースによると、八木氏が国語で例示を求めている教材の一つは

「赤ん坊が川に捨てられ、拾った養母に包丁で両断されそうになるというトラウマを抱えつつ、食べ物で釣って徒党を組み、島に隠れ住んでいた人々を虐殺して財宝をうばう」

という話だそうだ。http://bogusne.ws/article/90935619.html