「責任」はどこにある?

「責任」という語の意味が気になって、『広辞苑』に出典として示された『荘子』にさかのぼってみたが、結局よくわからなかった。
ふと、カントの道徳哲学関連の本をパラパラとめくってみた。
ところが、驚いたことに『原論』にも『第二批判』にも『道徳の形而上学』にも、「責任」という語が見当たらないのである。
「義務」ならたっぷりあるし「責務」もチラホラあるが、「責任」はない、なんて無責任なカント!(私が見逃しているだけかもしれないが、そうだったら、カント先生、ごめんなさい)
ヘーゲルの『法哲学』には出てきた。パラグラフ二八四にこうある。(中公『世界の名著』p542)

答弁が可能であるもの、すなわち客観性を証明することのできるものは、決定の客観的な面、すなわち内容と事情との知識、法律的決定根拠、およびその他の決定根拠だけである。したがってこの客観的な面は当然、君主みずからの意志そのものとは別個の審議機関において取り扱われるべきである。そのかぎり、この審議職ないしはこの職についている諸個人だけが責任を負わされているのであって、これに対して決定を下す最終の主体性としての君主固有の尊厳性は、統治行為に対するいっさいの責任を超越したところへ高められている。

これに関連して、kurahitoさんが教えてくださった論文「科学技術の責任と倫理」(丸山徳次)に、興味深いことが書いてあった。
http://philosophy.cs.kyoto-wu.ac.jp/2001/5papers.pdf
この論文で丸山氏は、足立忠夫「責任論と行政学」、西尾勝「政府機関の行政責任」を引きながら次のように整理している。

足立忠夫によれば、語源的に見て日本語の「責任」のルーツは、荘子『天道編第十三』中の文「帝王聖人…無為なれば則ち事に任ずる者に責あり」にある。「任事者」とは、帝王が統治を行うために必要な書記的事務を担任する者、役人・官吏である。そうした官吏に、帝王が一定の要求をもって事務を委任し、官吏がその要求に応えてその事務を遂行することが「責あり」ということである。足立は、責任の問題が、統治権の所持者たる帝王と個人としての任事者とのあいだに発生するばかりか、帝王と任事者の集団としての階統制的事務組織とのあいだにおいても発生することを指摘して、「責任」が、元来、行政学的文脈で語られたと主張している。ここから足立は、責任の観念に四つの局面のあることを分析しているが、この議論はさらに西尾勝によって、次のように整理されている。すなわち、?任務責任、?服従責任、?答弁責任、?受裁責任、の四つの局面である。本人から代理人への事務の委任によって任務責任が発生し、職務遂行にあたって準拠すべき行為準則を定めてそれを委任者が受任者に伝達することによって発生するのが服従責任である。委任者は、職務遂行状況について報告を求め、質問し、受任者の行為を点検し、評価しようとするが、これに対して受任者は己の行為とその結果について当の行為準則に照らして弁明し、釈明する。それが答弁責任であり、accountabilityとしての責任だと言ってよいだろう。答弁の内容によっては、受任者に対して解任ないし懲戒免職といった制裁がなされることになるが、この制裁を甘受する責任が受裁責任である。

丸山論文はこのあと、(法哲学の)ハートやヨナスの責任論を検討していくのだが、ここではさておく。
ともあれ、先に引いておいたヘーゲル法哲学』二八四で述べられている責任が、「答弁責任」にあたるように見えるのが興味深かった。
これで、ヘーゲル荘子に一脈通じるものがあった!ということにでもなれば話は面白くなるのだが、ただ、『荘子』天道編の「无為也、則任者責矣」が、はたして近現代の責任という観念に結びつくものなのか、私は懐疑的である。
丸山氏は「そもそも日本語の「責任」が古代官僚制モデルに由来するとともに、いまなおその含意を引きずっている」と述べているが、現代の日本で責任が話題になったときに、いちいち荘子を念頭に置いて論じることなど滅多にないだろうと思うからだ。
とはいえ、私如き素人がうだうだ言っていても埒があかない。『哲学・思想翻訳語事典』という便利そうなものがあるのを知り、妻の目を盗んで図書館に行って借りてきた。
しめしめ、これで疑問は氷解するぞ、と事典をひらいてみたら、ない。「責任」という項目がなかったのである。
「権利と義務」とか「自由」とか、「責任」という語と関係しそうな項目に目を通してみたが、肝心の「責任」については触れられていなかった。
がっかり。

追記;上の記事には誤謬があります

カントが「責任」について論じていないと言うのは私の早とちりらしい。
やはり、ちょっと調べた程度ではダメだな。
つづく。

カントの「責任」

カント先生にご無礼を働いたままでは、枕を高くして眠れないので、罪滅ぼしに写経する。

このゆえに人間は、単に欲望や傾向に属するものの影響を全くうけつけない意志を持っていると主張し、あらゆる欲望や感覚的刺激を無視してのみ実現しうるような行為を、みずからなしうる、いななさねばならぬ、と考えるのである。そういう行為を生み出す原因性は、知性としての彼の中にあり、かつ知性的世界の諸原理に従う作用と行為との法則の中にある。そしてそのような知性的世界について彼の知るところは、ただ次のことのみである。すなわち、その世界ではただ理性のみが、しかも感性から独立な理性のみが、法則を与えるということ、彼はその世界においてただ知性としてのみ本来の自己である〔これに反して彼は人間としては自己自身の単なる現象である〕ゆえに、かの法則は彼を直接に定言的に規定する、ということである。そこで、傾向や衝動が〔したがって感性界の全自然が〕いざないゆく目標は、知性としてのかれの意志作用の法則に対して何の害をも及ぼしえないのであり、さらにまた、彼は傾向や衝動に対して責任を負うことはなく、それらを本来の自己すなわち彼の意志のせいにすることはないのであり、ただ彼が傾向や衝動に彼の格率への影響をゆるして意志の理性的法則を損った場合には、それら傾向や衝動に対して彼が与えようとした譲歩に対して責任を負うのである。

以上、『世界の名著39 カント』中央公論社、p305より。
ここでの「責任」は、我がこととして引き受ける、という意味のように思われる。