哲学とはなにか

今日はエイプリルフールなので大風呂敷を広げてみようと思う。
今年も、勘違いして哲学科に進学してしまった学生諸君がいると思う。私もいまから三十年ほど前に勘違いして哲学科に入って以来、それなりにまじめに悪戦苦闘した挙げ句、さんざんな目にあった学生のなれの果てなので、今日の青雲の志が一カ月後には五月病になっているだろう末路がありありと見える。
それもこれも、書店に山ほどでまわっている新書版の哲学入門のたぐいが、日本における哲学の真の姿を伝えていないところから引き起こされた勘違いのせいなのだ。
そこで、学生時代、さんざん苦汁をなめた元学生として、その後、三十年近い「独自研究」の果てにたどりついた「日本における哲学とはなにか」についてこっそり明かすので、楽しいキャンパスライフの参考にしていただければ幸いである。
前からうすうす感づいていたことなのだが、日本には二つの哲学がある。日本の歴史的事情が、日本における哲学のあり方を二つに分けた。これは実態による分類のように見えるかもしれないが、実は理念上の分類である。
日本における哲学とは、明治になってからの輸入学問である。この事実は絶対にゆるがせに出来ない。この漢字二文字で表記される「哲学」とは、ギリシア語源のフィロソフィーとは若干趣を異にする(なお、後で述べる理由から「フィロソフィー」はギリシア語で表記すべきだろうが面倒くさいのでカタカナですませる)。
哲学は近代以降の輸入学問である、この素朴な事実から出発すると、日本における哲学は次の二つに分かれざるを得ない。
第一に、各時代ごとの現代思想研究である。明治の功利主義社会進化論ドイツ観念論、大正の生の哲学マルクス主義、新カント派、昭和の現象学分析哲学など。いろいろあるが、その本流は、同時代の欧米における社会哲学の摂取と消化である。
第二に、西洋古典哲学の研究である。古代ギリシアから近代までの哲学史研究がこれに当たるだろう。
そして、「哲学すること」のためには第二の古典研究こそが最も近しい。
古典哲学研究は一見すると歴史的・文献学的研究であって「哲学すること」からは遠いように見えるが、実は現代思想研究こそ社会哲学についての社会思想史的研究であって、そこから「哲学すること」へは距離がある。
身も蓋もない話をすると、高級官僚や実業界のリーダー養成所である旧帝大に哲学科が置かれたのはなぜか、ということである。
明治国家は欧米モデルの近代化をめざしたのだが、肝心の近代社会とは何かがよくわからなかった。ちょんまげを切って洋服を着てみたけれど、近代化ってどうも違うようだ。それで、お手本である欧米の近代社会の構成原理を究明する専門家を国家が養成することにしたのである。哲学科を設置しているような歴史のある私大もそれにならっている。
だから、旧帝大や大手私大にはその時々の欧米で有力な現代思想の専門家が必ずいる。本人はそう自覚していなくても、彼らに期待されている役割はそういうことである。彼らには「哲学すること」が義務づけられているわけではない。その時代ごとの先端思想の解説が出来ればよいのである。その上で「哲学すること」をするかどうかは、各人の裁量に任せられている。
これが日本における哲学の第一義のあり方だ。
これに対して、ここで仮に「哲学すること」と記したフィロソフィーは違う。「哲学」はフィロソフィーの訳語だが、日本の制度としての「哲学」はフィロソフィーではなくて、フィロソフィー研究のことである。
フィロソフィーとは何か、ソクラテスに始まった知性の運動のことであって、その知性の運動の原初の姿はプラトンの対話編からうかがい知るほかない以上、哲学史プラトンへの注釈である、というホワイトヘッドの指摘はまったく正しい。
ところで、欧米で哲学する者にとって、古代ギリシア哲学を源流とするフィロソフィーは自らの社会の文化伝統だが、東アジアの後発近代国家日本に生まれ育った者にとってはそうではない。それでは日本で生まれ育った者にとってフィロソフィーは無理かというとそうではない。実際、ごく少数だが哲学者の名にふさわしい碩学が日本にもいることにはいる。私は幸運にもそのうちの何人かの謦咳に接する機会があったので、日本人に哲学は無理だとまではいわない。欧米でも、ヨーロッパ的知性の歴史を受けとめてフィロソフィー出来る人など、そうたくさんはいない。ただ日本で生まれ育った者よりも圧倒的に有利な文化環境にいるというだけに過ぎない。
しかし、相対的とはいえ、彼我の差は絶大である。底辺が違うのだ。欧米の高名な現代思想家はたいてい哲学史研究の分野でもすぐれた業績があるが、日本では必ずしもそうではない。当たり前だ。カントやヘーゲルニーチェハイデガー母語で読むドイツ人や、中等教育のカリキュラムで哲学が必修になっているフランス人にはとうていかなうはずがない。
ヘーゲルハイデガーの真似をしようとしたら、英独仏にギリシア・ラテンの古典語を習得し、ヨーロッパ文化史と政治史を通覧し、キリスト教神学に通じることに長い歳月をかけ…、普通の人がそんなことをやっていたら、老年になってようやく哲学する準備が出来たと思える程度にしかならず、「日暮れて途遠し」とぼやくことになる。日本で「哲学すること」をしたい若者が分析哲学現象学に惹かれるのは、こうした歴史的修練をパスできると期待してのことだろうが、たいていその期待は裏切られる。方法においては抽象的に見えても、問題設定において歴史的だからである。
そこで、フィロソフィーに近づく、唯一のとはいわないまでも、かなり有力な手段として、古代ギリシア哲学研究がある。
ソクラテスのフィロソフィーに近づくには、どうしてもプラトンを通らなければならないが、クセノフォンやアリストテレスを動員すれば、プラトン一人の視点を相対化することも出来る。また、彼らの議論の前提がはるか昔の古代社会であることから具体的な事柄については理解しづらいことも多々あるが、だからこそ、ソクラテスの知性の運動のみに注目することも出来る。
近代日本国家の要請による哲学ではないフィロソフィー、国家の定めた宗教以外の智恵に接する最短の近道がここにある。
しかしながら、この最短コースを歩むには、古典ギリシア語の習得という難関はもちろん、哲学科内部においてすら古臭いことをやっている変人と後ろ指を指されるのに耐えるという苦行のオプションまで付いてくる。卒論や修論の指導教官だって見つからないかもしれない。いばらの道なのである。
だから、特定の思想家への強い愛着のある人や、語学と歴史に通じ形而上学や認識論を追究する面白さをよく知っている人であれば別だが、そうではなく、大学の哲学科にうっかり進学してしまった人は、大学の教師にそそのかされて「哲学すること」をしようとしてはならない。いや、やってみてもいいのだけれども、やってみてその奥深さを知るのは得難い経験に違いないとは思うのだが、学部卒論の段階でようやくフランスの高校(リセ)卒業のレベルに追いつくという現実を覚悟しておいた方がよい。
それじゃつまらないと思う人にお奨めしたいのは、輸入学問としての「哲学」の役割に開き直ることだ。哲学史をおさらいして、近代社会の原理を洞察した哲学者をピックアップし、そのうちの一人にねらいをつけてその学説を徹底的に勉強する。こちらの方が、「哲学すること」をしているつもりで「独自研究」の世界で自己陶酔するよりもはるかに有益である。
これなら簡単である。だいたい日本の哲学史の教科書で特筆大書されているのは、近代社会の理念を提唱した人か近代社会の矛盾を批判した人である。古代・中世については近代の思想家が頻繁に参照する人が大きくあつかわれ、そうでない人は、たとえ生前にどんなに大活躍していてもそれほど大きくはあつかわれない。そういうふうにできている。
哲学史上の有名どころにねらいをつけたら、翻訳でいいから代表的な著作を2冊くらい読んでみる。歯が立たないとか相性が悪いと感じたら、他の思想家のものを読んでみる。こうして、何とか理解できそうなものにめぐり会ったら、それを学部時代の研究テーマに据えて執念深くつきあっていけばよい。
このほうが、予備知識なしに「哲学すること」に突っ込んで、独自研究の迷路をさまようよりは、よほど実りが期待できる。入口は社会思想でも、近代の大思想家はたいてい幅広いジャンルで業績があるから、社会哲学に飽きたら認識論なり美学なり好きなテーマに切り替えるもよし、一人の思想家から先駆者に遡るのも、後世の後継者や批判者に移るのも容易である。社会哲学の基礎を押さえておけば、関連社会科学を学ぶ際の役にも立つ。
この観点からすると、最初に取りかかるのにお薦めできるのは、やっぱりカントかなあ。カントなら、読んでおいて無駄にならない。語学もドイツ語だけでいい。翻訳も複数ある。頼りになる研究書もたくさんある。カバーしている領域が広いので入口がたくさんある。時代的にもカントから遡ってもよし現代に下ってもよし。比較の対象もいくらでも見つかるし、学派の垣根を超えて共通の話題にできるテーマといったら、近代ではカントくらいじゃなかろうか。それに、うっかり調子に乗って「哲学すること」を試みようとした場合も、「哲学すること」を薦めた張本人はほかならぬカント先生であるから、うってつけというわけだ。
というわけで、結論。日本(の大学)における哲学とは、カントへの注釈(とそこからの逸脱)のことである。