カントの自殺論メモ

世間ではいろいと騒動があるようですが、僕はこのところ騒動は仕事だけで十分というくらいに疲れ切ってしまっていますので、のんきにカントを読んでいます。
先日、「不穏な注」と題してレーヴィット『共同存在の現象学』について覚え書きを書き殴っておいたところ、Arisanさんからコメント、研幾堂さんからブックマーク、黒猫房主さんから☆印と、なんともこわもての方々ばかりにチェックしていただいて恐懼にたえません。しばらくは低姿勢でいこうと思います。

人間学

カントは『人間学』の「勇敢と臆病について」論じた箇所で自殺についてふれています。

自殺によって生の重荷を脱しようと決意する人が、必ずしも見下げ果てた、無価値な人物であるわけではない。むしろ真の名誉に対して何の感情も持ち合わさぬ人達については、かかる行為をあまり気遣う必要がない。−−とはいえ、実際かかる所業があくまでも厭うべきものであることにかわりはなく、またこれによって人間は、自己みずからを醜怪な存在たらしめるのである。(引用は岩波文庫、表記一部変更)

名誉を重んじることが動機となって自殺することがある。その例として、誤った法律で処刑されるよりも自ら死を選ぶ場合が挙げられています。
カントは「ただし私はこれについて道徳性を弁護しようとするのではない」と但し書きを付けています。やはり、名誉のためであろうとも自分の生命を手段として利用し、目的を否定してしまうところがカントとしては受けいれがたいのだと思います。

『人倫の形而上学

『人倫の形而上学』では、自殺は自己殺害という犯罪である、とハッキリ言い切っています。「自己の人格をみずからその生命を断つことをとおして、他人の人格に対しても行われる」場合として「妊娠中の婦人が自殺する場合」を挙げていますから、カントは中絶反対派なのでしょう。
さて、自殺が犯罪であるのは「他人に対する義務の違反」であるからだそうです。この義務の生じる関係としては、夫婦・親子などの家族間の義務、国家に対する臣民としての義務、社会の市民間の義務、神に対する義務などが挙げられていますが、それら、他者との関係が一切問題がなかったとしても、自分自身に対する義務に違反していることになるだろうとカントは言います。
この自分自身に対する義務とは、この文脈では自己保存であるようです。

動物性という性質においての自分自身に対する人間の義務のうちで、もっとも重要な義務とはいえないにしても、第一の義務は、その動物的本性においての自己保存である。

引用は中公「世界の名著」からです。
居眠りしながら考えるに、これは自己の身体に対する責任のことかなあ、と思ったのですが、カントは真逆に考えているようです。
それはともかく、具体的な人間関係から離れて自分自身に対する義務という議論でカントが標的にしているのはストア派の自殺です。

ストア派の人たちは、目の前の災悪や来ると予想される禍に迫られたからというのでなく、もはやこの人生で何の役にも立ちえないという理由から、心安らかに、気の向くままに、人生から〔煙のたちこめた部屋から立ち去るように〕去っていくことを、彼の〔賢者の〕人格性の特権と考えたのである。

これに対してカントは、死をも恐れぬ勇気があるならば、その精神力は自殺しないことに向けられるべきだったと非難します。しかしこの非難はなんだかすれ違っているように見えます。カント自身書き留めているように、ストア派の自殺は何か強制力に挫折してということではありません。役割を満足に果たし終えて達成感のうちに舞台から引っ込む、そんなイメージです。

義務について語るかぎり、したがって生きているかぎり、人間は人格性を放棄するわけにはいかない。そこで一切の責務を免れる権能を人間がもっているということ、くわしくいえば、まるでそういう行為をするのには権能は一切必要でないかのように、自由勝手に行為する権能をもっているということは、一つの矛盾である。自分自身の人格のうちなる人倫性の主体を破壊しつくすということは、とりもなおさず、その主体に関するかぎり、目的それ自体たる人倫性そのものを、その実存の上からみて、根絶するに等しい。したがって、自分に随意な目的を達するための単なる手段として自己を処分することは、とりもなおさず、人間〔現象人 homo phaenomenon〕がじっさいそれを保存する委託をうけている、自己の人格のうちなる人間性〔本体人 homo noumenon〕の尊厳を奪うことになる。

「義務について語るかぎり、したがって生きているかぎり」とは驚きました。カントにとって義務と人生はイコールなんですね。彼は生きるべきだから生きたのでしょうね。こういう人にとって義務というものはあまり拘束とは感じられなかったかもしれません。
「一切の責務を免れる権能を人間がもっているということ、(中略)は、一つの矛盾である」とは、カントの敗北宣言のような気がするのです。人間は自殺することができる、それは認めたくないけれども、事実である。
「自分自身の人格のうちなる人倫性の主体を破壊しつくすということは、とりもなおさず、その主体に関するかぎり、目的それ自体たる人倫性そのものを、その実存の上からみて、根絶するに等しい。」
人格は目的である、というときの目的のイメージがずいぶんハッキリします。「人倫性」のことなんですね、もっとも人倫性が何かはわかりませんが。
「自分に随意な目的を達するための単なる手段として自己を処分することは、とりもなおさず、人間〔現象人 homo phaenomenon〕がじっさいそれを保存する委託をうけている、自己の人格のうちなる人間性〔本体人 homo noumenon〕の尊厳を奪うことになる。」
人間〔現象人 homo phaenomenon〕に「自己の人格のうちなる人間性〔本体人 homo noumenon〕の尊厳」を「保存する委託」をしたのは誰なのか、これはやはり文脈上、神としかいいようがないでしょう。レーヴィットが「現存が「神」から私たちに「委託されたもの」であるとする信仰」と言っていたのはここのことだったようです。カント先生、しくじりましたね。神様は引き合いに出さないはずだったのに出しちゃった。
だからどうだというのではなく、今日はレーヴィットが論じていた部分を確認したまでで力が尽き果てました。