「人身御供」論について

ずいぶん前に買って、読んでそれなりの感銘を受けた本がある。

神、人を喰う―人身御供の民俗学

神、人を喰う―人身御供の民俗学

非常に面白い本で、また読んでいて裨益されるところが少なくなかったが、上手く言えないが結論部分で肯けないものがあって、それがなんだかわだかまりのようになっていた。
その、引っかかったところを吐きだしてみる。
本書のテーマは人身御供である。さまざまな伝承に題材をとって、日本社会にとって人身御供伝説が語り継がれてきた意味を追求していく。

日本の農耕社会は、生き物を自らが殺す、という行為をできるだけ排除することで発展してきた。それは殺生による暴力を振るわないですむと同時に、動物と対峙することによって必然的に晒される身の危険、すなわち自らが殺されてしまうかもしれない、という人間が自然から受ける暴力を免れることでもある。しかし、人間が生きていくことは、生き物の犠牲の上に成り立っているのであり、そこでは人間もまた喰われることで生き物に生を与える存在であるはずだ。人々は、暴力を排除しようとする一方で、希薄化した生の実感をもう一度身体に呼び覚ましたいと願う。だからこそ、人が神に喰われるという恐ろしい人身御供譚が長い間伝承され続けてきたのではないか、そう私は考えている。(前掲書、p230)

これは同書の、事実上の結論である。ここまではなるほどと思って読んでいた。
ところがこの後、「失われた生の実感を求めて」という、ある種のエピローグがあって、そこで「人々は、暴力を排除しようとする一方で、希薄化した生の実感をもう一度身体に呼び覚ましたいと願う。」ということについて敷衍されている。
まず、アナール学派の歴史家コルバンの著書(『人食いの村』)を引いて、一七・一八世紀までは、虐殺の儀式には社会の再社会化を引き起こす機能があったが、啓蒙の時代の人道主義によって、暴力を伴う昔ながらの儀式を嫌うような感性「感じやすい魂」が生じた、という。

私は本書で、人身御供譚を祭のなかに暴力性を喚起する語りとしてとらえてきた。すなわち、人身御供譚とは、暴力性をできるだけ排除することで成り立ってきた日本の農耕社会で、希薄化した生の実感を人々の身体の中に呼び覚ますものだったと考えたのである。では、コルバンのいう「感じやすい魂」を共有する近代社会においても、果たして、人身御供譚は変わらず暴力性を喚起する語りとしての意味をもちうるのだろうか。(前掲書、p232)

近代化によって死や暴力が人間の生活圏から遠ざけられた、という議論はよく聞く話である。コルバンの議論もそういう流れの、あるいは源流の一つかもしれない。私は、その主張に懐疑的だが、それはさておくとしても、コルバンの議論は近代化を前提としている。六車の扱っている「日本の農耕社会」をそれと同列に扱ってよいかどうかは、素人でもすぐに思いつく疑問である。
もう一つ、ここで明らかに六車は、「生の実感」の希薄化の原因を「暴力性の排除」に求めているが、果たしてそうなのか?
後者の疑問は、同書の締めくくりの文章を読んでふくれあがった。

私もまた、「感じやすい魂」をもつ近代人であり、また動物殺しの現場から遠く隔たった生活を営んできた者の一人である。そのように考えると、人身御供譚にこだわり続け、そこに、喰う/喰われるという暴力性の発現を見ようとしたのは、行き詰まる近代文明のなかで、これから私たちがより豊かに生きていく術を見つけるためであったと同時に、何よりも、私自身が、自らの身体の中に、生のリアルな感覚、生きていることへの確かさを呼び覚ましたい、と願ったからかもしれない。(前掲書、p236-p237)

暴力や恐怖を語る物語が生活の倦怠に刺激を与えてくれる、ということであればそれは私もよくわかる。また、「見ようとした」もの、「願った」ものを見たのかもしれない、という自覚は、ないよりはあった方がましだ。
だが、近代文明は行き詰まっている(息詰まる現代社会)、という現状認識に立ち、「これから私たちがより豊かに生きていく術を見つけるため」、「自らの身体の中に、生のリアルな感覚、生きていることへの確かさを呼び覚ましたい」から、「喰う/喰われるという暴力性の発現を」求めた、というのはどうだろう?
語の定義によるのかもしれないし、これは人それぞれの感じ方というのもあるのかもしれないが、ここには暴力性の発現こそが近代文明の閉塞をうち破り、「私たちがより豊かに生きていく術」を与え、「生のリアルな感覚、生きていることへの確かさを呼び覚まし」てくれるはずだ、という期待が述べられているように読めてしまうのだが、その前提は妥当なのか。
私たちが、「生のリアルな感覚」から遠ざかっているとして、その原因は近代文明が暴力性を排除したからなのか?
暴力の発現なら、ここ数年の間にもアフガニスタンや、イラクや、パレスチナや、チベットやその他の国々(地域)で起こっているし、海外のことをあげつらうまでもなく日本でもさまざまな暴力の発現が起きている。それが感じられない「感じやすい魂」とはずいぶん鈍感ではないか、と首を傾げる。
むしろ、近代文明は暴力に満ちているとすら言えないか。にもかかわらず、「生きていることへの確かさ」が感じられないとしたら、そもそもその原因は、社会から暴力性が排除されているからではなかったのではないか。
同書全体は大変な力作で、繰り返すが非常に面白く読んだのだが、最後の粗雑な文明論で興ざめになってしまったのが惜しいかぎりである。