西門豹

不勉強といえば、西門豹の話があった。
史記』「魏世家」に、西門豹(せいもんほう、と読むらしい)という人物がでてくる。『韓非子』によれば、もとは性急な人であったが、ゆるい皮帯を身につけることで、せっかちな気性を直したのだという。『史記』には、前四百年頃、魏の文侯によってこの西門豹が鄴という町の長官に任じられて、その善政が評判になったとある。
史記』「魏世家」のこの記事は、文侯が子夏に学び、田子方、段干木ら賢人を重用し、臣に優れた人材が多くいたことを述べる文脈のなかで語られていることから、西門豹は有能な文官だったのだろう。
西門豹の善政については、具体的には「滑稽列伝」にあるのだが、岩波文庫では後世の人の加筆ということで訳出されておらず、私はちくま学芸文庫版で読んだ。

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)

機略をはたらかせて、河伯への人身御供の儀式をやめさせ、灌漑施設を整備するなど治水に尽力したということである。
ところで、この西門豹の故事だが、なぜ「滑稽列伝」の最後に掲載されているのだろうか。
西門豹が、生贄の儀式に立ちあって、犠牲として連れられてきた娘の代わりに、この祭儀から不当な利益を貪っていた巫女たち、祭儀を利用して鄴の町を支配していた有力者たちを河に放り込むくだりは、たしかに機知に富んでいて面白い。
だが、司馬遷の「滑稽列伝」の趣旨は、当時の芸能人や、奇人の活躍を描くことにあったはずで、後世の補筆者といえどもその意図を尊重したはずなのではないかと思うのだ。
そして、西門豹の記事を読み返すと、子産と比べてその功績を計る言葉で終っている。
「魏世家」での扱われ方といい、「滑稽列伝」にあることの場違い感といい、西門豹の故事を補筆するなら、むしろ子産も登場する「循吏列伝」の方がふさわしかったのではないかと思わざるを得ない。もしかすると、「循吏列伝」に加筆するつもりが、それこそ後世の編纂者の不手際で「滑稽列伝」に紛れ込んだのではないかとすら妄想してしまう。
膨大な『史記』研究を調べる余裕はないので、どなたか篤志の賢者が教えを垂れてくださることを乞う次第である。