デリダの「差延」(写経)

哲学の余白〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

哲学の余白〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

読んでわかる(ような気がする)訳本というのはうれしい。
学生時代にほしかった。
以下、デリダ『哲学の余白 上』より抜粋。
心を鎮めて、ひたすら写経。

差延」によって指し示されるものは単に能動的でもなければまた単に受動的でもないのであって、それはむしろ何か中間態〔=中間の声voix moyenne〕のようなものを告知ないし想起する。つまりそれは単なる作用ではないような作用のことを言っているのであり、言い換えれば一主観の一対象に対する能動としても受動としても考えられないような、作用を及ぼす側から出発しても作用を受ける側から出発しても考えられないような、これらの項のいずれから出発しても、またいずれをめがけても考えられないような、そうした作用のことなのだ。
前掲書、p44

差異はすっかりできあがった姿で天空から降ってきたわけではない。差異はトポス・ノエートス〔叡智界〕のなかに書き込まれているのでもなければ、あらかじめ脳髄の蝋板に書かれているのでもない。もしも「歴史」という語が差異の究極的抑圧というモチーフをはらんでいるのでなかったら、こう言うこともできるかもしれない。ただ諸差異だけがそもそものはじめから徹頭徹尾「歴史的」でありうるのだ、と。
 したがってdifferanceと書かれるものは、単に能動性ではないようなものによってそうした諸差異、そうした差異効果を「産出」する戯れ運動であるだろう。とはいえ諸差異を産出する差延がそれら諸差異以前に、なんらかの単純な、それ自体において変様されない無-差異的な現在=現前者のうちに存在しているということではない。差延は非-充足的な、非-単一的な「根源」、諸差異の〈構造化された差延する根源〉なのである。だから「根源」という名称はもはや差延にはふさわしくない。
前掲書、p48-p49

 記号学的な差異以前に、またその差異の外に現前性が存在しないのであってみれば、ソシュールが言語について書いている次の事態を記号一般にまで拡張することができる。「パロールが人に理解され、そのすべての結果を産出するためにはラングが必要である。しかしラングが成立するためにはパロールが必要である。歴史的にはパロール事象がつねに先立つ」。
 ソシュールが定式化したこの要請の内容はともかく、少なくともその図式を手もとに引き止めながら、われわれは差延によって次のような運動を指示しよう。すなわちその運動に従って言語が、あるいは一切のコード、一切の送り返しシステム一般が諸差異の織物として「歴史的に」構成される、そうした運動のことである。「構成される」「産出される」「創造される」「運動」「歴史的に」等々の語は、そのあらゆる含意とともに形而上学の言語に捕らえられているが、ここではそうした形而上学の言語の彼方でこれらの語を理解しなければならない。この観点から見るとき、産出という概念、それからまた構成とか歴史とかいった概念は、ここで問いの渦中に投げ込まれているものと共犯関係にある。
前掲書、p49-p50

 出発しなおそう。記号作用の運動が可能になるのは、現前性の舞台に現れる「現前的=現在的」と言われる各要素がその要素以外の他のものと関係をもち、自己のうちに過去の要素の標記を保蔵し、未来の要素との関係の標記によってすでに穿たれるにまかせている、そうした場合に限られる。差延とはこのような事態を生じさせるものである。そしてなぜそういう事態になるかと言えば、痕跡なるものは過去と呼ばれるものに関係をもつばかりではなく、未来と呼ばれるものにも関係をもち、そして自己でないものへのこのような関係そのものによって現在〔=現前者〕と呼ばれるものを構成するからである。自己でないものと言ったが、それは絶対に自己ではないのであって、言い換えれば変様された現在としての過去や未来でさえもない。現在が現在それ自身であるためには、或る間隔が現在を現在でないものから分離するのでなければならない。けれども現在を現在として構成するこの間隔は、同時にまた現在を現在それ自体において分裂させるのでなければならず、かくしてこの間隔は現在を分割するばかりではなく、現在を基点にして思考可能な一切のものを、すなわちわれわれの形而上学の言語で言えば一切の存在者を、特には実体ないし主体をも分割するのでなければならない。力動的にみずからを構成しつつみずからを分割するこの間隔、これがつまり空間化すなわち時間が空間となること、あるいは空間が時間となること(時間かせぎ)と呼びうるものである。そしてまさしくこうした〈現在の構成〉−−すなわちここで類比的かつ臨時に現象学および超越論の言語を再現して言えば(とはいえこうした言語が不適切であることはすぐに明らかになるが)、もろもろの過去把持および未来予持の標記・痕跡からなる「根源的な」綜合、還元不可能なほど非-単一的な、つまり厳密な意味では非-根源的な綜合−−そうした綜合としての〈現在の構成〉、これこそを私は原-エクリチュール、原-痕跡、ないしは差延と呼ぶことを提案しているのである。差延(は)空間化(と同時に)時間かせぎ(である)。
 根源なき差延のこの(能動的)(産出)運動を、新しい綴り方をしないでただ単に差異化(differenciation)と呼ぶこともできたのではないか。この語の使用はいろいろな誤解を生むが、とりわけ何か有機的な、根源的な、同質的な統一体を想像させてしまっただろう。すなわち場合によってはたまたま自己を分割するような、差異を一介の出来事としてたまたま受容するような、そんな有機的、根源的、同質的な統一体を。
前掲書、p51-p52