坂部恵氏

坂部恵氏が亡くなられたそうだ。
http://mainichi.jp/select/person/news/20090604k0000m060091000c.html

訃報:坂部恵さん73歳=東大名誉教授、哲学者
 東大名誉教授で哲学者の坂部恵(さかべ・めぐみ)さんが3日、神経膠芽腫(こうがしゅ)のため死去した。73歳。葬儀は9日午後1時半、東京都千代田区麹町6の5の1の聖イグナチオ教会。葬儀委員長は加藤尚武・京大名誉教授。喪主は妻玲子(れいこ)さん。

 東大を卒業後、東京都立大などを経て85年に東大教授。カントを中心とする西洋哲学の立場から、人間精神の根底を探求する試みを続けていた。元日本哲学会委員長。01年に紫綬褒章を受章。著書に「人類の知的遺産 カント」「不在の歌−−九鬼周造の世界」など。

毎日新聞 2009年6月3日 20時41分

傲慢にもドイツ嫌いを標榜していた生意気(=不勉強)な学生だった私が、訳本でとはいえ、カントを読むようになったのは、坂部氏の『理性の不安―カント哲学の生成と構造 (1976年)』に感銘を受けたからだった。
一度だけ、母校で学会が開かれた折にお会いしたことがあった。お会いしたと言っても、相手は元学会長、雲の上の人のようなもので、休憩所で「先生のファンです」と声をおかけして、ほんの少し雑談をした程度だが、私のような浪人者相手でもたいへん腰の低い方だった。
その後、廊下の隅で高橋哲哉氏と何か話し込んでいるのをお見かけした。高橋氏は坂部氏の教え子に当たるはずだが、坂部氏は丁寧な言葉遣いで高橋氏の発表内容について問いただしていた(いるように聞こえた、と言うべきか)。ご両人が何を話し合っているのか興味津々ではあったけれども、もちろん聞き耳を立てるようなはしたない真似はしたくなかったので、目礼してその場を立ち去った。
シモーヌ・ヴェイユ「人格と聖なるもの」を読み始めるに当たって、和辻哲郎「面とペルソナ」をおさらいしておいたのはhttp://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090522/1242925282、実を言えば、坂部氏の『仮面の解釈学 (UP選書 153)』に収められた「仮面と人格」というエッセイが思い出されたからである。
以下、写経。

いずれにせよ、間柄ないしはそのうちにおかれた役柄の表現として、仮面ないしそれに準ずるイレズミなどの身体装飾は、けっして素顔にくらべていわば倫理的に価値の低いものではない。素顔もまた、一個のペルソナなのだ。自己同一的な現前存在者として、みずからに属するすべての述語をそのうちに含みこみ担う主体あるいは基体としての素顔などというのは、けっして根本的・原初的な与件ではなく、むしろ、つねに、あらかじめ、象徴的・差異化的体系としての間柄の分節の方向へ、他者性の方向へと関係づけられ、位置づけられ、述語的他者性による規定を受けとったものとして以外には、いわば、形どりとあらわれの場所をもつことがない。わたしの素顔もまた、わたしにとって、他者(ないしは〈他者の他者〉)以外のものではなく、他者性につきまとわれることのない純粋な自己、自己への絶対的な近さ、現前、親密さなどというものは、本来、どこにも存在しない。〈わたし〉は(おそらく、それが、絶対的な〈汝〉の面前における代替不可能な〈わたし〉というようなものである場合ですら)、つねに、〈人称〉personneないしは、〈仮面〉personaとして以外には、形どられあらわれることがないのだ。
(『仮面の解釈学』p82-p83)

「素顔もまた、一個のペルソナなのだ」という句は、思慮浅い青年だった私にとって、ちょっとした衝撃だった。思慮浅い中年となった今では、それは一つの生の事実を指摘したように感じられる。

一個の〈ひと〉として、〈正気〉の〈ひと〉として、〈わたし〉を形成することは、総じて、その時代その社会によって承認された想像的・象徴的体系(ひろい意味での〈形而上学〉をふくめて)に〈憑かれる〉ことなのではあるまいか。わたしは文明人だから何ものにも〈憑かれ〉てはいない、と妙に醒めたつもりで利口ぶるよりも、あるいは何ものかに〈憑かれ〉ているのではないか、あまりにその〈憑き〉が一般的であるゆえにそれをそれとして自覚することが容易ではないのではないかと一度は疑ってみること、〈憑依〉を〈憑依〉としてさしあたり対自化し自覚しようと努めること、今日の時代を暗黙のうちに支配するおそらく一皮むけばたとえようもなくゆゆしくも不気味なさまざまな〈フェティシズム〉をあかるみに出そうと努めることは、わたしには、比較的にいって、より賢明な行き方のように思われる。
(p93)

この文章を読んでから四半世紀が過ぎた。馬齢を重ねて思慮浅い中年になった私が「〈憑依〉を〈憑依〉としてさしあたり対自化し自覚」できているかどうかはまことに心許ないが、ましてや、「今日の時代を暗黙のうちに支配するおそらく一皮むけばたとえようもなくゆゆしくも不気味なさまざまな〈フェティシズム〉をあかるみに」出すことなど、とうてい力の及ぶところではないけれども、読み返せば初心を思い出させてくれる文章である。