去年、最後に買って読んだ本はなかなか出色。
- 作者: 石井洋二郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2010/12/01
- メディア: 単行本
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このラインナップ、私と同世代の元文学青年なら、懐かしい感じを抱くのではないだろうか。70年代終わりから80年代中ごろにかけて、雑誌「ユリイカ」や「現代詩手帖」などで頻繁に取り上げられた文学者たちだから。
本書で取り上げられているバルトはもちろんのこと、フーコー、ドゥルーズ、デリダらもまずは文学論から紹介されたものだった。当時の日本での取り上げ方には、政治的含意が脱色されてしまうという弊害があったことは既に知られていることだが、一方で、文学を思考の実験場として、言語論や文化論などの領野で多彩な挑戦がなされもした。カルスタ・ポスコロブームのあと、そうした試みがポストモダンという呼び名で一括されて顧みられなくなったのはいささか残念にも感じていた。
とはいえ、本書は政治的文脈を無視しているわけではない。著者はブルデューから「普遍のショーヴィニズム」という言葉を引いている。
「ショーヴィニズム」とは第一帝政時代の模範的な兵士、ショーヴァンの名前に由来する言葉で、排外的愛国主義の意である。この概念はナショナリズムを極度に先鋭化させたものとして定義されるから、「普遍」という価値とは本来相反するかに思われるが、右のミシュレの例に見られるように、しばしば自国の歴史や文化こそが普遍的であるという価値観と結びつき、無意識のうちにみずからを正当化してしまう。こうした心理的な傾向のうちに、ブルデューは文化的権威主義につきもののイデオロギー的陥穽を見て取ったのである。
この「普遍のショーヴィニズム」を相対化し、場合によってはその裏をかくものとして、サド、フーリエ、ランボー、ブルトン、バタイユ、バルトの系譜が呼び出されたのである。
それゆえ重要なのは、普遍という概念を、例外を含みつつもこれを外部に排出することで安定した体系を保持するものとしてとらえるのか、それとも例外による浸食を受けながらみずから不断に変容していくものとしてとらえるのか、という問題になるだろう。この点について詳細な議論を展開する余裕はないが、少なくとも本書で扱ったのはいずれも後者の陣営、すなわち「例外」の侵犯力に全面的に与する側の人々であった。
山口昌男の「中心と周縁」理論、今村仁司の「第三項排除効果」理論などは、それぞれどちらに当てはまるのだろうかなどと、しばらく思い出にふけったりした。