Web評論誌『コーラ』14号

このブログでは、晩ご飯の献立ばかりではしまりがないだろうということと、若い頃に習ったことを忘れたくないという思いがあって、時々哲学書の感想を書き留めるが、自分にその方面の才能がないということはよく知っている。
大学に入る前は、哲学なんて個性的なひらめきがあればどうにかなるとタカをくくっていたが、実際に勉強しはじめてしばらく経ってから、本格的に哲学の研究をするには、歴史家のような手堅い洞察と、翻訳家のような鋭敏な言語感覚と、数学者のような論理的思考を兼ね備えていなければならないことを知り、自分には向いていないと悟った。それと同時に、あると思っていた個性的なひらめきも思春期の少年にありがちな思い違いだったことにも気がついた。
自分の凡庸さにもう少し早く気づいていたら、専攻をかえるなりなんなり手の打ちようもあったのだが、残念ながら卒論を書き出してからのことだったので、私はそのまま哲学科の卒業生になってしまった。
結果として私は、浮世離れした知識を中途半端に憶えているだけの、実に役に立たない青年として社会に出ることになった。
実際、結婚前の妻に「よくもそんな役に立たないことばかり知っているものね」と笑われたことがある。妻の考える知識とは、現実の諸問題を解決する力と方法のことだ。そんな妻が、どうしてこんなダメ人間と一緒になってくれたのか不思議である。
あ、思い出した。「きっと一生大切にしてくれると思うから一緒になってください」と私がお願いしたからだった(元ネタは『釣りバカ日誌』だということは妻には内緒だ)。
それはともかく、哲学なんて難しいものについてわかっているふりをすることは結構つらいことである。しかし、他にたいした勉強もしてこなかった以上、世渡りのためにはこけおどしでも知ったかぶりをする必要がある。
黒猫編集長との大人の事情から、またもや似非哲学をでっち上げなければならない羽目におちいりかけていたのだが、この墓穴を掘ることの多い処世にもさすがに疲れはじめた今日この頃、ない知恵を絞るよりももっと上手い手はないかと考えた挙句、自分に知恵がないなら、あるところから借りてくればよいと思いついた。
そこで、ブログを通じて知り合った岡田有生さんと、若い友人のST君をまんまと言いくるめて、Web評論誌『コーラ』14号の穴を埋めたのでここにご案内する。
もちろん、企画の動機は大人の事情とはいえ、ST君の論文たるや堂々たるレベルのものだし、岡田さんのコメントも味わいのあるエッセイで、こんなに才能豊かな立派な人たちが、私ごときの口車に乗せられてくれたなんて、感謝感激しきりである。
ただ、うっかりしたのは「現代思想を再考する1」と銘打たれてしまったことで、1があるからには2もあるだろうということで、また何かやらなければならないとは頭の痛いことだが、次回は岡田氏の有り余る知恵から少しおこぼれをいただいてしのごうかと、早くも悪だくみをする今日この頃、みなさんお変わりありませんか。私は猛暑で頭が回りません。

          • 以下<転載歓迎>ですので、ご紹介くださいませ。-----------------

 ■■■Web評論誌『コーラ』14号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html


 ●現代思想を再考する1 デリダと継承の困難●
 継承と隔たり――いかにしてデリダは/を継承するか
 
  ST(コメント:広坂朋信・岡田有生)
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-1.html
  継承とは何であるか。一般に継承は、過去のものを現在において想起し証言し、未来へ受け継ぐ営みであると考えられる。そうした考えでは、一方において、現在における同一性が想定されている、すなわち、想起し証言する時の現在は過去と未来とは区別され、厳密には瞬間として、いわば点として幅をもたない。他方において、過去と未来との区別が想定されている。過去が未来であることはない。
  哲学を、真理と知の根拠、それらの起源を問うものと考えるならば、哲学はいわば遡及的な営みとなるだろう。その営みが目指す根拠と起源が、――やや奇妙な言い方をするが――過去のもの(時間的に、あるいは論理的に、あるいは価値的に)であるなら、哲学とは想起であることになろう。また哲学が言語を媒介する限り、その想起は証言となる。したがって、過去の根拠と起源を想起し証言する哲学は、その限りで継承の実践であることになろう。
  自身哲学者でありながら、過去の哲学者の読み手でもあったジャック・デリダを、継承の問題から読むならば、デリダの哲学つまり脱構築とは、どのような継承の実践となるだろうか。またその際、以上述べた継承の一般的な考え方は当てはまるだろうか。(以下、Webに続く)


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  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第18章 ララングと水中花─ラカン三体とパース十体(急ノ弐) 
 
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-18.html
 
 「それはイメージであり、音であり、嗅覚であり、眺めである。さまざまな制度や教義の布置である。聖痕であり、傷であり、腫れであり、熱であり、ささくれであり、涙であり、病である。異言であり、呻きであり、祈りであり、叫びであり、歌である。詩であり、本であり、註解である。」佐々木中著『夜戦と永遠』第一部「ジャック・ラカン、大他者の享楽の非神学」の第二五節「書く享楽──果敢なる破綻、ララング」にでてくる文章です。
  ここにいたる論述を通じて、佐々木氏は、ラカンがいう「女性の享楽=大他者の享楽」を、(「ミシェル・ド・セルトーおよび彼に私淑する神秘主義研究者鶴岡賀雄氏に依拠」しつつ)、十字架の聖ヨハネアヴィラ聖テレジア、等々の西欧一六、一七世紀の大神秘家たちの体験に、とりわけ神と恋する婚姻神秘主義の体験におきかえています。もとより、それらの体験(「現実界との遭遇」)は言葉では語れません。女性=大他者の享楽は象徴界の外、想像界現実界が重なる場所にあるものなのであって、そこは、「イメージには辛うじてなるが言語にするのは不可能な場所」だからです。
  ところが、(鶴岡氏によると)、神秘家とは「書く者」のことであり、書かない神秘家など存在しません。「女性の享楽は、神と恋をし、神に抱かれ、それをめぐって書く享楽である。恋文を書く享楽、神の恋文に遭遇する享楽。神に抱かれ、神の文字が聖痕として自らの身体に書き込まれる享楽、そしてまたそれについて書く享楽。」「しかし、それはどんな言葉なのか。
 「見えるが見えない、語れるが語れない」「パラドックス」を孕む出来事だが、対象aとは何の関係もない出来事を語る言葉とは。」冒頭に引いた、「それはイメージであり」以下の文章は、この問いのあとにつづくものでした。(以下、Webに続く)

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  ●連載「新・玩物草紙」●
  椅 子/草 枕

  寺田 操
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-4.html
  江戸川乱歩人間椅子」(『江戸川乱歩傑作集』新潮文庫/1996・10・44刷)は、タイトルこそ怖いが、読みはじめると、哀しい男の「孤族」ともいうべき物語だということに気づく。椅子職人が「丹精こめた美しい椅子を手放したくない、できることなら、その椅子と一緒に、どこまでもついて行きたい」と願望を抱くのは、職人としての素朴な感情だろう。だが、「やどかり」のように椅子に棲家を移そうと思いついたときから、奇怪な快楽が芽生えた。姿を消して、他者の身体のぬくもりを感応するスリリングな感覚。恋する女性がその椅子に座れば、まさしく「椅子の中の恋!」となるのだから。  (以下、Webに続く)

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