Web評論「コーラ」21号

Web評論「コーラ」21号に寄稿させていただきました。

 ■■■Web評論誌『コーラ』21号のご案内■■■

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 ●現代思想を再考する[第2期] 3●
  グノーシス的日本

  広坂朋信(コメント:岡田有生)
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  1.柄谷行人の今村社会哲学評
  柄谷行人は、朝日新聞2005年04月17日付けの書評欄で、今村仁司の『抗争する人間』(講談社)を取り上げた。その記事で柄谷は「本書は、社会哲学者として知られた著者の、これまでの仕事を集大成するような力作である」と儀礼的に評価しながら、今村の議論を次のように要約している。
 (以下、Webに続く)

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  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
   第27章 言語・意識・認識(言語フィールド篇)

  中原紀生
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  ■井筒豊子の和歌論三部作
  日本古典文学、とりわけ古今、新古今をめぐる言語哲学的意味論。この、実現されなかった井筒俊彦の和歌論を「類推」させる仕事として、若松英輔氏は『井筒俊彦──叡知の哲学』で、次の五つの事例をあげていました。
  その第一は、千載集における幽玄の復活を論じ、和歌の蘇生を、そして同時に和歌における自覚的な伝統の樹立を考察した風巻景次郎の『中世の文学伝統』、(風巻景次�欖いわく、「だから私は『千載集』の抒情調をもって幽玄であるということにしよう。そこで『千載集』が『古今』の正調に復したというのは、つまり幽玄の調を打ち立てたことにほかならぬのである。ただ『古今集』と『千載集』とではどこがちがっているのであるかといえば、それは『千載集』は、幽玄という如きことを「詩」の必要条件として要求する心の生んだものであったということである。『古今集』にはそうした意識はまだ成立していないのである。((以下、Webに続く)

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  ●連載「新・玩物草紙」●
   猫は美形を保ったまま/人形姫

  寺田 操
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   (以下、Webに続く)
  中華そば屋の暖簾の下を猫がのんびり歩いていく表紙の文芸雑誌「猫町文庫」3集(2012・5)を開くと、和田ゆりえ『猫屋敷』に手招きされた。
 《古代エジプトでは飼い猫が死ぬと、人々は眉を剃り落として悲しみ、ミイラにしてバステト女神の神殿に奉納したといいます。》《彼らすべてに心優しい飼い主がおり、死後はふたたび彼らといっしょに暮らしたいという願いを込めて、丁重にミイラにしたのです。》
  古代エジプトでは死後の永遠が信じられているから、猫のミイラもあるのだろう。イギリスの探検隊がエジプトで30万体の猫のミイラを発見したというが、小説の主人公は古代エジプト人ではない。猫と共生している独身女性の暮らしを描いた作品だ。クレオパトラが黒猫を抱いて寝ている姿が目に浮かんだ。 ((以下、Webに続く)

今回は岡田有生さんの重い問題提起を受け止めつつ、いつまでも80年代回顧ばかりやっていられなくなったという焦りもあって、近未来を射程に軽薄な大風呂敷を広げようと頑張ったのですが、書いている間に時代に追い抜かれてしまって、なんだかとりとめのない話になってしまいました。毎度のことですが、次回こそそれなりにまとまった話をして、岡田さんとの実のある議論につなげたいと思います。