「四谷怪談」を読む(はじめに)

「「四谷怪談」を読む(一)」をこのブログに掲載したら、さっそくコメントを寄せてくださった方が「四谷怪談というと、すぐ歌舞伎や映画を思い出します」と書かれているのを読んで、アッしまった!と気づいた。つまり私は、四谷怪談といえばすぐ歌舞伎や映画を思い出せる人にしか通用しない書き方をしている。だから広坂の怪談はわかりづらいと苦情を言われることになるのだ。そういえば、共著者の横山泰子先生が紆余曲折のあった本書の刊行を祝ってくださった言葉のなかで「画期的な出版です。日本で十人くらいは大喜びしている人がきっといる」と仰っていたことをも思い出した。
「日本で十人って、つまり世界で十人くらいにしか通じないってことですか?」
「いえ、海外にも南北の研究者はいるでしょうから、十一人くらい(笑)」
そこで、これではいけない、と、かつての没原稿を引っぱり出すことにした。1998年に執筆してお蔵入りしたものだから情報がやや古いが、これを以下に掲載して、順番は前後するが私の「「四谷怪談」を読む」の序としたい。
なお「四谷怪談」をめぐる話題、特に史実との関係について一通りご存知の方にはご承知のことばかりだろうから、駄文をお読みになる必要はない。

四谷怪談」の知名度

 毎年、夏になると舞台・映画・テレビドラマなどで繰り返し上演・上映される「四谷怪談」は日本でもっともポピュラーな怪談話といってよいだろう。そこに登場するグロテスクなヒロイン、お岩さまの亡霊は日本を代表する幽霊だといっても過言ではない。もちろん、名作の誉れ高い怪談は他にもあるし、世間に名の通った幽霊もいくらでもいるのだが、「四谷怪談のお岩さま」ほどエネルギッシュで、強烈なインパクトを与える幽霊は他にまず見当たらない。
 有名であることには間違いないけれども、数多くの舞台・映画・テレビドラマなどの原作となった、四世鶴屋南北作『東海道四谷怪談』を読んだり、あるいは歌舞伎の芝居で見たという人は、「四谷怪談を知っている」という人に比べれば意外に少ないのではないか。たいていの人は映画・テレビドラマ、怪談のアンソロジー本などによって、いわばダイジェスト版の「四谷怪談」を知っているにすぎないのではないか。かくいう僕自身、小学生の頃テレビで見たのが最初だった。
 「四谷怪談」の知られ方について、片岡徳雄による面白いアンケート結果が報告されている。

広島市のある女子大生と女子短大生に、忠臣蔵のことも合わせて四谷怪談のことを尋ねたことがある。(中略)
まず第一に、若い彼女たちは意外に、この話を二つともに知っている。一七七人のうち約一五〇人、ほぼ八五パーセントが知っているという。
次に面白いのは、忠臣蔵の方はほとんどテレビで知ったというのだが、四谷怪談はテレビで知ったという以上に、他人の話から知ったという。
最も面白いのは、忠臣蔵の主人公・大星由良之助(大石内蔵助)よりも四谷怪談の女主人公お岩のほうが、同性のためだろう、彼女たちの間でよく知られている。
マスコミ時代といわれる今日もなお口コミによって、人から人へと「四谷怪談のこわさ」や「お岩様の恐ろしさ」は、語り伝えられているようだ。
(片岡徳雄『四谷怪談の女たち』小学館ライブラリーP8〜P9)

 片岡も注目しているように、「四谷怪談」は鶴屋南北という特定の作者による作品としてよりは、いわば「お岩伝説」として不特定多数によって口頭で語り伝えられてきた面もある。だから、南北の『東海道四谷怪談』もさまざまに物語られてきた「お岩伝説」のうちの有力な一つとして考えることもできる。

伝説として

 ここで僕が「四谷怪談」を「お岩伝説」として考えようとするのには、「伝説」という言葉についての次のような定義が念頭にある。

 伝説は、過去に実際におこったと信じられている出来事を、具体的な事物とむすびつけて説いた物語で、伝承者の間では真実のこととして深く信じられている。(中略)伝説は具体的な場所、時、人、事物とむすびつく個別的な史実や体験を自由に語るもので、説明的な性格を持っている。またその内容には超自然的な性格がみられ、筋も悲劇的なものが多く認められると思われる。こうしたことから、伝説は庶民の信仰、自然認識、歴史認識と密接な関係を持っている。そして、木、岩、祠堂など特定の事物を媒介として、地域社会や民族の過去と現在をむすびつけ、集団の連帯性を強化する機能を果たしている。
(宮家準『日本の民俗宗教』講談社学術文庫P159)

 さて、「四谷怪談」を「お岩伝説」と呼ぶのが適当かどうか、まずはさまざまなメディアで語られる「お岩伝説」の共通項を抜き出してみよう。
一、江戸時代、四谷(現在、東京都新宿区)にイエモンという侍とその妻イワが住んでいた。
二、イエモンは出世の欲か色の欲(あるいはその両方)に目がくらんで他の女と親密になったあげく、邪魔になった妻イワを死なせてしまう。(イワの死因はイエモンが直接手を下した場合とそうでない場合がある)
三、イワは、死の直前に夫イエモンの裏切りを知り、復讐を誓って死ぬ。(イワはこの時点では死なず、失踪したとする場合もある)
四、死んだ(または失踪した)イワは恐ろしい顔の怨霊となってイエモンとその関係者の前に現われ、次々に怪事件を起こす。(事件の規模にはさまざまなバリエーションがある)
・お岩伝説、いわゆる「四谷怪談」の骨格は以上の通りだが、これに後日談がつく場合がある。
五、この話は実話であって、芝居などで四谷怪談を上演するときは、四谷にあるイワをまつった神社にお参りしないと今でも祟りがある。
 こうしてみると、やはり「四谷怪談」にはそれを伝説と呼んでいい条件があることがわかる。一は、時・場所・人物の特定。二と三は、悲劇的な筋。四は、超自然的な性格。五は、庶民の信仰との密接な関係、「祠堂(神社)など特定の事物を媒介として、地域社会や民族の過去と現在をむすびつけ」る機能と、そして史実であることの強調。
 この中で、もっとも重要なのは、話の順番としては付け足しのように見える後日談だろう。これなしでは「四谷怪談」はただの怖い話でしかない。伝説というものの魅力は、ひとえにその話が史実と何らかの関係を持っているというところから生じる。「お岩伝説」を生み出した史実とはなんだったのだろうか。イエモンとイワはどういう人だったのか、そしてこの二人の間に何が起こったのか。

お岩さまの祟り 後日談あれこれ

 ある事柄が事実であることを説得しようとするとき、よく使われる常套句に「私が直接それを見た(体験した)」がある。もっとも一般には、観察・体験がそれだけで事実の保証となるためには、第三者にとっても同じような観察・体験が可能であることが条件とされる。この条件を満たしていない体験は、ふつう錯覚とか思い違いといわれても仕方がない。けれども、そんなことをいっても体験以外に根拠を示しようがない事柄もある。いわゆる心霊現象もその一つだ。
 「お岩伝説」の後日談にはたいてい尾ひれがつき、それは心霊現象の体験談として語られるのが常だ。そのうちのいくつかを挙げておく。

市川團十郎丈にきく 歌舞伎の怪異
(前略)「四谷怪談」をやるときには、今でも役者さんはお岩稲荷にお詣りにいきます。これをしないとなにかよくないことがあるなんていいます。しかし、伊右衛門役はお詣りにはいきません。私は伊右衛門役以外にやらせていただいたことがないので、まだ一度もうかがったことはないんですけど。どうも、伊右衛門が行くとよくないということになっていますね。ですから、「四谷怪談」をやるときには、お岩さんの俳優を中心にしてお詣りするんです。
 民谷神社にも行きますが、お詣りの順番はお岩稲荷のほうが先で、それから民谷様の方にまわらないと、お岩さんの嫉妬をうけてたたりがあるというふうにいいますね。
 −團十郎さんご自身、「四谷怪談」を演じられて、なにか変わったことはありませんでしたか。
 はじめてやらせていただいたときに、浪宅なんですけど、ここには伊右衛門が外へ出ていく雪駄と、それから宅悦の下駄と二足しかないのです。ところが、幕がおわると一足多いんですよ。はきものは、最初に二足しか置いてないものなんです。一体これはなんだ、どうしたんだと。結局わからなかったですね。
 累もそうですが、お岩さんも目がただれるというお芝居なんです。そのためか、目にくることがあるんですね。大きなモノモライができて出演中に切ったなんて話もきいています。うちの弟子でもおかしなことがありましたよ。
 −それはどういう?
 四谷さま(四谷怪談)は、切穴とか水車とか、せりを使ったり、けっこう仕掛けが多い舞台なので、それで怪我人がでやすいのかもしれません。そのなかで、隠亡掘で戸板が流れてくる場面があるんです。戸板が水の中に入ると土手のところに上がってくるという仕掛けなんですが、たまたまその戸板に頭がぶつかったんですね。内出血というのは、場合によっては下がってくるんでしょうか。何日かしたら、目のまわりが紫色にふくれちゃって、ほんとうにお岩さんみたいでした。
 目に因縁が深い狂言なのですが、ただ誰にでるかはわからない。一座のどなたかにつくのだともいわれています。
(中略)
 それからもうひとつ。四谷さまを京都の劇場でやっていたとき、千秋楽近くにこんなことがありました。黒御簾ってところがあるでしょう。舞台を見ながら三味線を弾いたり、下座音楽を演奏するところなんですが、そこにいる人たちが、四谷さまの庵室という場面で、なにか白いものが客席のまん中をふあーっと通るのを見たというんです。私も出てたんですが、舞台に立つと明りでそういうのはわからないんです。でも両サイドだとある程度見えるわけです。一人だけじゃなく、黒御簾の中にいた六人が六人「あっ、あれなんだ。ああ、なんだなんだ」っていう感じだったそうですよ。

コンピューターにたたったお岩さん
 東京両国に広大な江戸東京博物館がオープンしたのは、一九九三年三月のことである。この博物館で人気があるのは、歌舞伎の舞台のからくりを見せる展示で、東海道四谷怪談の「蛇山庵室の場」提灯抜け、仏壇返し、壁抜け、田楽返し、観客をあっといわせるおどろおどろしい仕掛けがどんなふうにして演じられるのか、表と裏を一度にみせようという意気込みで、スタッフは製作にとりくんだ。
(中略)
 コンピューターを駆使して完成、開館準備に追われる直前のある日、いよいよ試運転ということになった。ところがスイッチを入れてもびくとも動かないから、スタッフはあわてた。さっそくコンピューターの点検にとりかかったが、機械にはどこにも異状はない。すると、
「だからいわないこっちゃない。四谷怪談をやるならお岩さんのところへお詣りにいかないと、必ずたたりがあるっていったろう。」
という者もあらわれた。たしかにそういえばそういう声もあったのだが、役所仕事だからついついおろそかになったわけで、それじゃあとお岩稲荷にお詣りにいき、お札をもらってきて機械にはったところ、みごと、コンピューターは動きだしたという。

以上、二話とも、日本民話の会編『怖いうわさ 不思議なはなし』童心社より。
次は柴田練三郎「四谷怪談・お岩」より。

 作者自身も目下妙な経験をしている。
 本編を書きはじめて程なく、右目が腫れて、泪が絶え間なく流れ出はじめ、しばらく、執筆にもゴルフにもさしつかえた。それが、やっと癒えると、こんどは、全身に、湿疹ができて、なんともやりきれなくなった。
 殊に、ペンを握る右手に、湿疹がひどくなった。よもや、お岩の祟りなどとは、夢にも思わずにいたが、お岩が喜助から伊右衛門の入り婿のことをきいて逆上するくだりにさしかかったとき、はっと気がついた。あわてて、四谷左門町へ車を走らせ、お岩稲荷へ詣でた。
 ところが、車を運転して、一緒に詣でてくれた青年が、帰宅するや、原因不明の高熱を発して寝込んでしまった。
 ちなみに、青年というのは、私の娘の婿である。
 三百年を経て、なお、男に祟るとは、げに、執念深い女性ではある。
(柴田練三郎『伝奇妖異小説集 怪談 累ヶ淵』光文社文庫

次のものは比較的よく知られたもので、場所や人名を変えたバリエーションもある。

岩波ホールの「お岩さんのたたり」
 歌舞伎や映画で『東海道四ッ谷怪談』を上演、制作する場合、役者やスタッフをめぐる怪談話がついてまわる。特に、昭和五一年五月から六月にかけて、東京・千代田区神田神保町にある岩波ホールで上演されたときには、被害者が続出して話題になった。(中略、脚本家、演出家が続いて入院する事件発生)
 やっぱり、と「お岩さん」のたたり説が出て、スタッフ、キャスト打ちそろって、型どおり四ッ谷のお岩稲荷にお参りした。だが、異変はおさまるどころか、ますます激しくなる一方で、出演者を次々に狙いうちした。まず、お岩役の女優・白石加代子の証言。
「二月の初め、スタッフの人たちと五人でお寿司屋さんに行ったら、お茶が六つ運ばれてきたんです。アラ、変だわねえ、なんて言っているところにお寿司が運ばれてきて、これがまた六人前、店の人に注意したら、『あれッ、さっきの女の人は?』と言うんで、もうキャーッという騒ぎ…」
 白石の場合、公演が始まってからも、一週間に一度ぐらいの割合で、「一つ多いお茶」の異変が続いた。お岩の幽霊が宙吊りになって飛ぶシーンでは、いつのまにか衣装の裾が、グッショリ濡れていたこともある。白石は、舞台に出る前と帰るときには、必ず楽屋の神棚に手を合わせるようにした。
室生忠『都市妖怪物語』三一新書、p113〜p115)

 ご覧のように、お岩さまは現代でもなお、元気にご活躍されている様子で、そのパワーたるやア然とさせられるものがある。
 最後に挙げた話には、寿司屋ではなく、レストラン、お茶ではなく椅子が一つ多いのに気付いてお店の人に声をかけると…以下同じ、というバリエーションもあって、「お岩伝説」がもはや元の「四谷怪談」から独り立ちして活発に再生産されていることを示す事例ともなっている。
 この他に、俳優やスタッフが倒れた、事故があったなど、またはそれに類した話は「四谷怪談」の上演・上映のたびにといってもいいほどうわさになる(最近ではシアター・コクーンで『四谷怪談』を上演した際、プロデューサーが変死した、など)。こうなるとトラブルのすべてをお岩さまの祟りということにして、禍い転じて何とやら、話題作りの一助としているのではないかとかんぐりたくもなる。それはともあれ、こうしたゴシップが流され、受け入れられているということは、「四谷怪談」は実話であると広く信じられている証拠といえる。

二つのお岩稲荷

 「お岩伝説」の後日談に、必ずといっていいほど登場するのが、四谷にあるお岩さまをまつった神社だ。これは、東京の市街地図などにも載っている。東京都新宿区左門町十七番地に「お岩稲荷」とある。市川團十郎の話では、「お岩稲荷」と「民谷神社」の二つがあることになっていた。
 地下鉄丸ノ内線四谷三丁目駅下車、地上に出るとスーパーの前にお岩稲荷とあり、お岩さまのレリーフらしきものがあるが、これはいかにも観光用のミニチュアだ。だいいち、住所が違う。
 地図を頼りにいくと、四谷三丁目の交差点から南、外苑東通り信濃町方向へ向かう。左手に見える四谷警察署の前を通り過ぎて横丁を左に入る。すぐに四つ角になるのでそこを右へ折れる。このあたりは交通の激しい表通りとはうってかわって静かな住宅街だ。右側が左門町十七番地である。
 ところが、しばらく歩くと前方左手に赤い旗が立っていて、「於岩稲荷立正殿 長照山陽運寺」とある。その向かいには、落ち着いた風情の小さな神社があって、こちらは「東京都指定史跡 於岩稲荷田宮神社」となっている。これで市川團十郎の話に出てきた「お岩稲荷」が「長照山陽運寺」、「民谷神社」が「田宮神社」のことだとわかる。石柱に彫込まれた寄進者の名前を見ると、陽運寺は地元の商工業者、新宿・渋谷などの飲食店主が多く、田宮神社の方は歌舞伎役者の名前がずらりといった具合である。
 左門町に「お岩さま」を祭る神社が二つ出来てしまったいわれは、『新宿と伝説』(新宿区教育委員会編)、『考証 江戸八百八町』(綿谷雪著 秋田書店)などによると、そもそも、明治十二年頃、四谷界隈で大火事があり、旧於岩稲荷が焼失したのを機に、歌舞伎役者市川左団次の世話で、越前堀(現在の中央区新川二−二五−十一)に田宮神社が移ったのが始まりだったという。

お岩さんは男の浮気止めに霊験があるというので、水商売の女などの参詣が多かったし、かたがた新富座華やかだった時代の芝居関係の参詣者の足便なども考えて、下町進出をやらかしたわけであったらしい。四谷の地元では、名物のお岩さんを持っていかれてしまっては困るというので、四谷お岩稲荷保存会本部というものが左門町二三番地にでき上がった。
(『考証 江戸八百八町』綿谷雪著 秋田書店P285)

 四谷お岩稲荷保存会本部というものものしい名前はご愛嬌だが、この本部「お岩尊」という名の祠を立てて、お岩さまを祭っていた。それを第二次大戦後、世田谷区玄照寺の住職山岡海辰をかつぎだして、旧田宮神社跡地の向かいに祭りなおしたのが、現在の於岩稲荷立正殿 長照山陽運寺である。本家の面目をかけて田宮神社が旧地に再建されたのが昭和二七年、以来、左門町には二つのお岩稲荷が道をへだてて向かい合っている。

田宮神社の伝承

 お岩稲荷本家の田宮神社には、東京都教育委員会による案内板が立っている。

      都旧跡 田宮稲荷神社跡
   所在 新宿区左門町十七番地
   指定 昭和六年十二月二日
   文化文政期に江戸文化は瀾熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は  民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政十二年(一八二九)十一月二十七日没)も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。物語は文政十年(一八二七)十月名主茂八郎が町の伝説を集録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治五年頃お岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和二十七年再びここに移転したものである。
   昭和四十三年三月一日 建設
                                東京都教育委員会

 田宮神社の中に入ると、拝殿正面に「田宮神社由来記」と題したパンフレットが置いてあり、これからこの神社の沿革と伝承についてかなりの情報が得られる。次に要点を抜き書きしておく。

 当地左門町は江戸幕府の後家人の組屋敷があった所で、現在この神社のあります所は田宮伊右衛門と言う直参の武家の住宅のあった所でありまして、この稲荷神社は、この宅地内に代々、田宮家の邸内社(やしきがみ)としてお祭りしていたものでありましたが、田宮家の二代目に当たりますお岩様は殊の外このお稲荷様を厚く信仰していたのであります。
お岩さまは徳川家の後家人、田宮又左衛門の娘で、その夫、田宮伊右衛門とは人も羨む仲のよい夫婦だったのです。ところが三十俵三人扶持(年十五石九斗の実収、今の金で三万五千円ほど)の禄石では格式ばかり高くても、暮らしの内情は火の車の苦しさ。そこで、二人は家計を助け、家を復興するために奉公に出たのですが、お岩さまは家に伝わる稲荷さまを信仰したおかげで、無事夫婦は家を再興することができました。
そのため人びとは、お岩さまにあやかるために、その稲荷を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになり、田宮家でも邸内神としての稲荷明神のかたわらに小さな祠を設けてお岩さまをまつったと、いい伝えられています。
時代を過ぎ、明治十二年八月、このときの神域が手ぜまな為に中央区新川二−二五−十一に移座いたしまして、当田宮家旧邸は昭和六年東京都より史跡として指定され、田宮家にて管理いたしておりましたが、昭和二十年の戦災で社殿焼失しましたので、その後多く崇敬者の方々が中心となり田宮家十代目たる宮司と相はかり、お社再建の計画を進め、昭和二十七年現社殿復興し現在に至っております。
なお、お岩さまは寛永十三年二月二十二日に亡くなられましたので、この二十二日を当神社の祭礼日として毎月奉公しております。
墓所は、四谷鮫が橋の妙行寺にありましたが、明治四十二年にお寺と共に巣鴨に移され今日もなお香煙の絶える事がありません。

この田宮家の伝承を信じるならば、いわゆる「四谷怪談」は、イワとイエモンの実在以外はすべてフィクションということになる。

「文政町方書上」

 四谷怪談実話説は、お岩さまに関するさまざまなゴシップの根拠となると同時に、ゴシップが生じるというそのこと自体によって強化されるという構造になっている。この実話説の根拠となっているのが、田宮神社の案内版にもあった公文書「文政町方書上」である。これは文政十年(一八二七)、幕府が江戸各地の町名主(最末端の行政職)に担当地域の地誌などについて報告を求めたのに応えて作成されたもので、「お岩伝説」はそのうち四谷編の附録、「於岩稲荷来由書上」として記録されている。これにはいろいろ疑問点があり、そのまま受け取るわけにはいかないが、ともかく四谷怪談の史実を伝えるものとして広く知られたものだけに無視するわけにはいかない。
 当の「文政町方書上」は現在、国立国会図書館に保管されている。さいわい、『四谷區史』(昭和九年 四谷區役所発行)と、郡司正勝による『新潮日本古典集成 東海道四谷怪談』(新潮社)の解説の中で翻刻されているので、以下、それにできるだけ忠実にそって「お岩伝説」をやや詳しく紹介する。

「文政町方書上」附録「於岩稲荷来由書上」より
一、於岩稲荷社
   但 社間口一間半 奥行九尺 土蔵作。
 右の稲荷ができたのは、(中略、以下、徳川家について三河から出てきた七十人の侍の子孫が、この町に住むようになったいわれが述べられている)。
 寛文(1661〜1672)の頃、この町は、組屋敷(官舎)のあった御先手組(戦時には軍の先鋒隊、平時では江戸城の警備を担当、鉄砲隊と弓隊に分かれ、火付盗賊改めを命じられることもあった部署)の組頭に諏訪左門が就任したのを機にそれ以来、左門町と呼ばれてきた。これはその後、榊原采女が組頭となった貞享(1684〜1687)の頃の話である。
 御先手組の同心(ヒラ隊員)、田宮又左衛門、のちに伊右衛門と改名、当時五四才が、重い病にかかった。そこで(家名相続のため)、当時二一才の娘いわへ急いで養子を迎えようとするが、彼女は結婚適齢期(当時女性は十六〜十八が普通)を過ぎ、重い疱瘡(天然痘)にかかった跡が残り、片目がつぶれてたいへん醜い顔である上、頑固で強情な性格で養子にこようという男はなかなかいなかった。そこへ、下谷金杉(現在、台東区下谷三のあたり)の又市というものの紹介で、御先手組同心秋山長右衛門を媒酌人とし、摂津生まれの浪人もの、氏名不明三一才を婿養子にして田宮伊右衛門と名乗らせ、田宮家を相続させた。
 伊右衛門の名を継いだこの婿は、人品卑しからず、愛嬌もあり、万事器用にこなすので同僚の評判もよい。与力(末端管理職、伊右衛門の上司)、伊東喜兵衛とはとくに親しくつきあい、たびたび家にも出入りし、そこで伊東の妾こととも知り合いになり、たがいにひかれていく。やがて、ことは妊娠するが、おなかの子の父親、喜兵衛は五十も過ぎており、当時としてはもう老人、若い妾に子どもを産ませたとなるとスキャンダルになる。そこで、伊右衛門におなかの子ともどもことを引き取らせようと計画し、伊右衛門と秋山長右衛門を招き、密談におよんだ。この計画を聞いた伊右衛門は、もともとずるい性質だったので、胸の中では喜びながらもいったんは断るが、喜兵衛と長右衛門に再三説得され、ついに、家付きの妻いわをだまして離別に持ち込むことになった。
 それからというもの、伊右衛門は勤めも家庭も忘れたかのような振る舞いをし始めた。バクチを好み、家財道具や、いわの着物までも質にいれて贅沢三昧、遊び歩いて家にも落ち着かない。いわが意見をすると怒って殴る蹴るの乱暴に及ぶ。とうとう食べる米にも事欠くありさま。
 困った姿を見かねてという風をよそおい、長右衛門夫婦はいわを喜兵衛宅へ呼び寄せて、こう説得した。「伊右衛門の不埒な行いが問題になっては、家名断絶ということになるかもしれない。そうかといって(妻の方から)夫を離縁するというのも人の道の上(実際は当時の制度上)からどうかと思う。そこで、いったん夫より離縁状を取って奉公に出たらどうか。(いわが奉公に出てまでも)真心を尽くす様子を見れば、伊右衛門も心を改めるだろう」と親切ごかしにすすめた。(真に受けた)いわは、さっそく伊右衛門と話し合って、離縁状を貰い受け、かねて知り合いの、四谷塩町の紙屋又兵衛という人を保証人に頼み、番町のあたりへ下女奉公に出た。
 (いわが家を出て)その後、伊右衛門は喜兵衛の妾ことを懐妊のまま、長右衛門を(またも)媒酌人にして、貞享四年(1687)七月十八日、嫁に迎えた。伊右衛門とことは、夫婦仲睦まじく暮らし、喜兵衛が父親である娘そめを長女に、権八郎、銕之丞、末娘きくと子供にも恵まれた。
 伊右衛門の近所に住んでいた、刻み煙草訪問販売業、茂助という男が、三番町のあたりへ仕事に出向いたとき、たまたまいわの奉公先の屋敷に入った。そこでいわに会った茂助は、伊右衛門の様子を残らず話して聞かせた。いわは聞き終えるなり、嫉妬が募って鬼女の如くなり、狂乱し、そのまま屋敷を飛び出して伊右衛門宅のそばまで来たが、西の方へ走り行き、ついに行方不明となった。
 それからいろいろと奇怪なことが起こった。伊右衛門の後妻こととその子供達は残らず変死。伊右衛門は、業病にかかり死んだ。秋山長右衛門とその妻子も残らず取り殺された。これで、田宮、秋山両家断絶。伊東喜兵衛は池田伝左衛門という者を養子にして、喜兵衛の名を名乗らせ、自分は土慎と名を変えていたが、養子の喜兵衛が不始末を起こして、これまた家名断絶。その他、関係者はすべて、夫婦、兄弟、親子の別無く、総勢十八人、次々と変死、家名断絶となった。
 その後、田宮伊右衛門宅の跡へは、元禄(1688〜1703)の頃、浅野左兵衛がお先手組組頭を勤めた頃、市川直右衛門という者が住んだ。この人が勤めを辞めた後、正徳五年(1715)、羽太清左衛門が組頭のとき、山浦甚平という者がそこに住んだが、いろいろと奇怪なことが起こった。そこで、田宮家の菩提寺、元鮫河橋南町、俗に千日谷(と呼ばれる)日蓮宗妙行寺へ頼み、屋敷内へ稲荷をまつって、妙行寺において追善供養を行ったところ、その後自然と祟りもおさまり、後には霊験も増して、今でも、於岩稲荷として小さな祠を組屋敷内、山浦甚蔵の地所にまつっている。
 山浦甚平の五代目に当たる山浦甚蔵は、今も旧田宮宅跡に住んでいるが、お岩狂走後、近々百五十回忌になるので、追善供養を企画し、文政八年(1825)八月、お岩に戒名を贈りたい旨、妙行寺へ頼んだところ、「得證院妙念日正大姉」という戒名が(すでに)寺の過去帳に記載されていた。
一、鬼横町(横丁)
  組屋敷内、東通りより、西通りへ抜ける小道
 右は、お岩が鬼女の如くなって、この横町を走り過ぎたことから、この名がついた。
以上、私どもが管理している地域の事柄につき、調査し、ご報告申し上げました。
 文政十年(1827)十月  四谷伝馬町
                             名主 孫右衛門 印 
                              同  茂八郎 印