「四谷怪談」を読む(十八)嫉妬の朽縄

『四ッ谷雑談集』の描く伊右衛門とお花の婚礼の宴は、寛文・延宝のころの流行の話題で盛り上がり、歌や踊りも飛び出して、夜更けまで続いていた。メンバーは、伊右衛門、新婦のお花、仲人の秋山長右衛門とその妻、近藤六郎兵衛、押しかけてきた今井仁右衛門、水谷庄右衛門、志津目久右衛門の三人組、それに給仕のために呼ばれた小女(こおんな)の九名である。

赤蛇

宴もたけなわの頃合いに、座敷に赤い小蛇が這い出た。「四谷怪談」と言いながら、これまで怪異らしいことは一つもなかったが、この蛇が最初の怪異とされる。
この場面については、Web評論誌「コーラ」20号に寄稿させていただいた「生きている女の幻と心霊研究」に書いたので、そちらから該当部分を転載する。
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-5.html

伊右衛門はお岩を離縁してすぐに再婚した。入り婿が跡取り娘を離縁しての再婚だから世間体が悪く、婚礼はごく親しい者たちだけでとりおこなわれたが、それでも宴は深夜まで続いた。祝い酒もまわり、歌や踊りで盛り上がっている最中のことであった。
 ……行燈の脇から一尺ほどの赤い小蛇が一匹這い出した。新婦をはじめ、酌をしていた女たちも驚き騒ぐので、伊右衛門は蛇を火箸ではさんで庭へ放り捨てた。ところが、しばらくするとまた先ほどの蛇が行燈の上へ這い上がっていた。伊右衛門はそれを見て、「今庭へ捨てたと思ったが…。蛇は酒を好むというから、匂いを嗅ぎつけて酒盛の仲間入りをしたいのだろうが、火箸から逃れられるものではないぞ」とまた火箸ではさみ、裏の薮へ投げ捨てた。……
 原文は江戸時代の文章だが、ほぼ忠実に現代語訳した。原文をご覧になりたい方は『近世実録全書第四巻』(早稲田大學出版部)に収録された『四谷怪談』に、おおよそ一致する場面がある。
 赤蛇は三たび現れた。今度は祝言の客の一人が素手でつかんで裏庭に持っていき、「おまえ卑怯だぞ、どうして執着するのか、もしまたやってきたら頭をぶっつぶすからな。生きながら畜生となったのは、自分が愚かなためだ。もう二度と来るな」と言い聞かせて放してやった。
 つまり、この客は蛇を、だまされたお岩の化身と見なしているのである。彼がそのように感じたのは、前妻の怨念は蛇となって祟るという、仏教系の説話に多くある知識を背景にしている。

この場面で、蛇をお岩の執念の化身とみなして説教した客とは、只酒を飲もうと婚礼に押しかけてきた三人組の一人、今井仁右衛門である。彼はこれに続く章で、蛇を前妻の生霊とみなした理由について物語ることになる。
蛇を女の執念の化身とするのは、『道成寺』をはじめとして先行説話がいくつもある。特に赤蛇に注目すれば、『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』の該当場面に付した注(p57)でふれたとおり、『善悪報ばなし』に「人を妬む女の口より蛇出る事」がある。このテーマについては、高田衛氏の『女と蛇―表徴の江戸文学誌』が詳しい。

東海道四谷怪談』の当初の構想

ところで、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』では蛇はあまり出てこない。『四ッ谷雑談集』の伊右衛門再婚のエピソードに相当する場面では、伊右衛門に殺されて、お岩の遺骸とともに戸板にくくりつけられて神田川に流される小平の指が蛇に見えるという場面があるが、現代の舞台ではあまり強調されない。今夏も歌舞伎座で「四谷怪談」を観てきたが、セリフにはあったようだが、三階の桟敷席からだったためか小平の指までは見えなかった。
しかし、南北は『雑談』の蛇を初めから無視していたわけではなかった。
東海道四谷怪談 新潮日本古典集成 第45回』の解説で郡司正勝氏は、「古き世界の民谷某妻のお岩は子の年度妹の袖が祝言の銚子にまとふ嫉妬の朽縄」という宣伝文が「芝居」初演の際の前宣伝に使われたと指摘している。郡司氏はここから「本作品が出来る以前の作者の構想をほぼ探ることができる」としている。
「古き世界の」というのは、文政年間では『雑談』の描く「四谷怪談」は既に昔話になっていたからである。
「民谷某」は『雑談』の田宮伊右衛門のことだが、実在の御先手同心・田宮家から苦情が来ないように別の字を当てた。『忠臣蔵』で大石内蔵助が大星由良助になっているようなものである。
「妻のお岩は子の年度」と、お岩が子年生まれとされている。モデルとなった田宮岩という女性が何年生まれかはわからないが、南北が『東海道四谷怪談』を発表する以前から、お岩と鼠は関連づけられていたことを示している。『雑談』の鼠の怪についてはまた後述する。
「妹の袖」は『雑談』には登場しない。『雑談』のお岩は父・又左衛門の一人娘とされていて、もちろん妹はいない。しかし、南北の「芝居」では、お岩にはお袖という妹がいたことになっていて、劇の前半で死んでしまうお岩に替わって、劇後半のヒロインとして活躍する。お袖という人物は南北のまったくの創作かもしれないが、『雑談』の伊右衛門後妻お花の長女(実は伊東喜兵衛の娘という設定)の名がお染なので、あるいはそこからヒントを得たのかもしれない。
「朽縄」とはもちろん蛇のことで、蛇を女性の嫉妬心の化身とみなす場合があることは先に述べたとおり。
さて、『東海道四谷怪談』が完成する前の構想で、「妹の袖が祝言の銚子にまとふ嫉妬の朽縄」というのはどのような場面か。お岩の妹、お袖という人物が注目される。
蛇となって現れるのは姉の執念である。どうして姉が妹の結婚に嫉妬するかといえば、妹の夫が、本来は自分の夫になるはずの男か、夫だった男かのどちらかだからである。「四谷怪談」であるから後者を取る。
お袖とは『雑談』のお花でもあり、「芝居」のお梅でもあり、「書上」のお琴でもある。実際の姉妹でなくとも、お岩の若いライバルであれば、それがお袖だ。
そうすると南北の「芝居」の当初の構想は、お岩が醜さゆえに伊右衛門から嫌われて離縁された後に、妹的立場のお袖が後妻となり、そこから祟りが起こる、という筋書きだったのだろう。

月さびよ 明智が妻の はなせしむ

記紀神話イワナガヒメコノハナサクヤヒメまでさかのぼってもいいが、今回はもう少し近い時期にさぐってみる。
思い当たるのは、井原西鶴武家義理物語』にある明智光秀の妻のエピソードである。
よく知られている話のようなので、粗筋はウィキペディアから引いてすます。

天文14年(1545年)頃、明智光秀と婚約。ところがしばらくして疱瘡にかかり、体中にあばたが残った。父・範煕は、煕子と瓜二つの妹を、煕子のふりをさせて光秀のもとにやったが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えたという(後世の創作ともいわれる)。

これは光秀の妻「妻木 煕子」の項目にある話だが、西鶴が『武家義理物語』に載せた話の粗筋だろう。ここでは史実かどうかの詮索はしない。西鶴の文章では娘と父の名前は出てこないほか、もっとドラマチックに描いてある。
煕子が光秀の貧苦を救うために黒髪を売った話も有名で、光秀夫妻の仲のよさは語り草になり、松尾芭蕉が「月さびよ 明智が妻の はなせしむ」と詠んだのも周知の通り。
ついでに付け足すと、『武家義理物語』では光秀の妻は「此女かたちに引かへて。こゝろたけく」、明け暮れに戦の批評をして、庭の砂で陣地の研究・攻城の演習をしていたが、その意見は「自然と理にかなひて」光秀の気のつかなかったことも指摘して夫を助けたという。
武家義理物語 (岩波文庫 黄 204-8)』の注には『常山紀談』に類話があるというのでそちらを見てみると、福岡の戦国武将、高橋紹運の逸話があった。これも旧仮名を打つのが面倒なのでウィキペディアから概要を転載する。

斎藤鎮実の妹(一説に娘とも)を正妻として迎えることが決まった後、度重なる戦で婚儀が延期となっていた。この間に鎮実の妹は疱瘡を罹い、容貌が悪くなってしまった。このため鎮実は婚約を断ってきたが、「私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない」と、そのまま妻として迎え、その仲睦まじく、四子を儲け、家臣からも母のように慕われたという。

さらに、江戸時代の公家・柳原紀光の随筆『閑窓自語』には、公家の堤栄長(1735-1795)のこととして「堤前宰相栄長卿妾醜女語」という記事がある。これは…ネットには無いようなので、しかたなく自分で雑に訳す。
栄長卿が若い時に恋した娘がいたが、娘の親に反対されて結ばれずにいるうちに、「かの女、疱瘡わつらひて、かたち大きにみにくゝ成、ことさら一眼しひ」、つまり疱瘡で片目を失い、「さなから鬼のことく成て」と、『雑談』のお岩そっくりになって、親もうとましく思うほどだったのを、栄長は少しも悔やまず、快く引き取って、妾として養い、一生をともに過ごした。「見にくしとても、丈夫の一言変すへきにあらすといはれしとそ。たのもしとやいふへき」。
「妾にしやしなひ」というのは、現代の感覚ではどうかというところだが、側室は当たり前の時代のことなので、そこは割り引いてみれば「たのもしとやいふへき」という感想ももっともである。
三つともハッピーエンドというか、いわゆる「ちょっといい話」の類いだが、これらが美談として語り伝えられたということは、ふつうはその逆、つまり、疱瘡で醜くなったことを理由に縁談が反故になったり、離縁されたりしたことが多かったのだろう。
『雑談』の伊右衛門ももう少し辛抱すれば美談の主人公になれたのに、と残念に思わないでもないが、よく知られた美談の逆を描こうというのが『雑談』の趣向だろうから仕方がない。
類話を三つあげたが、南北の『東海道四谷怪談』の当初の構想に近いのは、姉妹が出てくる明智光秀の逸話である。南北には明智光秀をモデルにした芝居『時桔梗出世請状』があるくらいだから、この逸話も知らないわけがない。あるいは、これは仮説というより妄想だけれども、実際の『東海道四谷怪談』は『忠臣蔵』のパロディ的外伝として出来上がったが、当初の構想では『明智軍記』の世界に『四ッ谷雑談集』を持ちこむつもりだったのかもしれない。