「四谷怪談」を読む(一)

これから数回に分けて、「四谷怪談」の源流『四ッ谷雑談集』について覚書を記していくことにする。
七月に刊行された『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』で、私は「四谷怪談」の源流『四ッ谷雑談集』の現代語訳と注を担当させていただいた。同書は東雅夫氏が「小説推理」誌の書評で「日本最恐の幽霊譚に、最強の入門書」と持ちあげてくださったが、実は必ずしも初心者向きではない側面がある。横山泰子先生が同書の序文で南北『東海道四谷怪談』、京極夏彦嗤う伊右衛門』との関係についてはわかりやすく示してくださっているが、私が担当すべき『文政町方書上』との関係についてはまったく不十分で、なぜ「四谷怪談」マニアが『四ッ谷雑談集』に夢中になるのか、「四谷怪談」入門として本書を手にした読者には見当がつかないということになりかねないことを恐れる。
そこで、不足を補う意味も込めて、また、同書が現在、新刊で手に入る唯一の『四ッ谷雑談集』現代語訳であることから、あまり読者に特定の解釈を押しつけないようにと自制した(つもり)故の欲求不満の解消も兼ねて『四ッ谷雑談集』を読みながら気のついたことを書きとめておきたい。

まえおき

そもそも私が「四谷怪談」に興味を抱いたのは…、ということから詳しく語ろうとすると前置きが長くなりすぎるので、ごく簡単に言えば、大学生の時、岩波新書で出た広末保『四谷怪談』を読んで興味を持ったが、社会人になってから於岩稲荷田宮神社の方と知り合って関心はさらに深まり、以来、仕事の合間に調べつづけてきた。素人なりに調べた結果は『江戸怪奇異聞録』(希林館)を書かせてもらった時に、いったんまとめておこうかと思ったが、同書の版元の社主から「まだ議論に迷いがある、これだけの大ネタをこの状態で出すのはもったいない」と咎められて、「四谷怪談」の部分はほとんど削ってしまった。
そのときは版元の指示を恨めしく思ったが、今になってみると適切な処置であった。というのも、当時の私は『四ッ谷雑談集』を読んでいなかったからである。もちろん、『近世実録全書』第四巻の該当箇所は読んでいたし、高田衛氏の現代語訳(『日本怪談集〈江戸編〉 (河出文庫)』)、釣洋一氏の抄訳(『四谷怪談360年目の真実』於岩稲荷田宮神社)も読んでいた。けれども、高田氏が「奥書に享保十二年(一七二七)の年時」が記されているという矢口丹波文庫本の原文を見たことがなかったのである。
実は『近世実録全書』第四巻収録の「四谷怪談」と矢口丹波文庫本は、ストーリーを把握するうえではほぼ同じなのだが、当時は比較のしようもなかったので、なんとも歯がゆい状態にあった。そのため推論に憶測が混じり、そのことへの遠慮から議論が甘くなったのを希林館の社主は見抜いたのだろう。
なぜ矢口丹波文庫本が気になったかというと、これも詳しく話すとキリがないので以下の本論に譲って、さっそく本題に入ろう。

底本について

『四ッ谷雑談集』現代語訳の底本については、『実録四谷怪談』の凡例やあとがきに記してある通り、静岡大学の小二田誠二先生所蔵の矢口丹波文庫本のコピーから起こしたテキストである。小二田先生のご厚意によって借覧させていただいた。私は国文学の素人なので、気軽に原本とか原文といってしまうが、厳密にはこれは宝暦五年に書き写された写本であってオリジナルではない。小二田先生によれば、奥書に享保十二年とあるが、公刊されたものではないので、これを現代の書籍の奥付のように考えることができるかどうかはわからないとのことである。ただ、宝暦五年にこの本が写本された際に、元の本に享保十二年と書いてあったのを写したのだろうということが言える程度であるそうだ。
それでは、享保十二年という日付の信用度はどれくらいかというと、私は上限についてはかなり信用できると考えている。なぜなら、本文中に享保十一年に起きた出来事についての記事があるからだ。逆に、この日付がもっと前の、正徳とか宝永とかの年号であれば、はなはだ怪しいということになる。だから、『四ッ谷雑談集』の成立年代は享保十二年(1727)から宝暦五年(1755)の間と考えて大過なさそうだ(新史料が発見されれば撤回する)。
そうであれば、この矢口丹波文庫本の『四ッ谷雑談集』は、文章で記録された「四谷怪談」の現在知られている限りでは最古の文献であると言える。そんなことでどうして鼻息が荒くなるかというと、「四谷怪談」は史実と伝説が入り混じっているからである。江戸時代の代表的な怪談と比較してみよう。まず「累ヶ淵」怪談、これは三遊亭円朝の怪談噺こそ創作だが、そのもとになった『死霊解脱物語聞書』は実話である。もちろん霊験を強調するための誇張はあるだろうが大筋は事実である。死霊の憑依という現象をどう解釈するかは別問題で、死霊に憑依された少女をめぐる騒動は実際に起きた出来事だ。これに対して「皿屋敷」怪談は伝説である。おそらく室町時代の後期に生まれた伝説が江戸時代に文芸化されて広まったものだろう。伝説の発生にはなんらかの史実がかかわっていたかもしれないが、もはや追跡不可能である。
ところが、「四谷怪談」は、実話と伝説のいずれにも当てはまる。江戸時代の初めに、四谷左門町で何か事件が起きて、それが人々の関心をひき、さまざまな都市伝説が生まれた。このこと自体は史実とみなせると思うが、その詳しい経緯がわからない。都市伝説が口コミで広がる過程で、ゴシップや類似の伝説を吸収して内容がふくらみ、やがて唐来山人や曲亭馬琴らによって文芸化されていく。そして、文政八年に鶴屋南北が『忠臣蔵』をとりこんで作った「四谷怪談」物の歌舞伎芝居『東海道四谷怪談』が上演され、以来、人々の「四谷怪談」のイメージは南北の芝居をベースにしたものになっていった。この、史実から伝説へ、伝説から文芸へのプロセスをたどる上でいわばミッシングリンクの位置にあったのが『四ッ谷雑談集』だったのである。
おそらく『四ッ谷雑談集』は伝説が文芸化された最初のものだろう(新史料が発見されれば撤回する)。そのタイトルが「雑談集」となっているのは、これがもともと一つの物語ではなく、複数の伝説やゴシップから編集されたものであったからだと思われる。だから、『四ッ谷雑談集』以外のまとめ方をした異説・異伝もあったことだろう(その一つが『文政町方書上』なのかもしれない)。ともあれ、「四谷怪談」の原型となった江戸の都市伝説にアプローチするには、そしてその彼方の史実に近づくには、この『四ッ谷雑談集』を拠点にするほかないのである。それがどうして大問題なのかは、おいおい語っていくことにしよう。一言で言えば、「四谷怪談」のヒロイン・お岩様は実在した女性だからだ。お岩様に会いたいのである。
さて、底本は上中下の三部構成になっていて、これがオリジナルの構成に沿ったものかどうかはわからない。明治時代の翻刻本の一つ『今古実録四谷雑談』上下巻の二部構成だし、大正・昭和の『近世実録全書』は巻をわけていない。それぞれがどういう理由なのかはわからない。ただ、底本については、上巻は伊右衛門の婿入りからお岩失踪まで、中巻はお岩の祟りの始まりから多田三十郎事件にかかわって伊東家が断絶するまでを中心に描き、下巻は伊右衛門の死から秋山家断絶、伊東土快の最期までを描いており、それなりに内容を反映しているように感じられる。
底本の著者はわからない。二種類の後書きがあって、その筆者が同一かどうかもわからない。そもそも本文自体、一人の人が書き下ろしたものかどうかもわからない。ただ、上・中・下で文章の調子が微妙に違っている。特に下巻は当て字の使い方が明らかに違う箇所がある。少なくとも、写本には複数の人がかかわっているような印象を受けた。国文学研究の素養のない私には印象を述べることしかできないが、今後、専門家による校訂作業が行われることを切に望む。