「四谷怪談」を読む(二十)多葉粉屋茂助之事

いよいよ『四ッ谷雑談集』上巻のクライマックス、伊東喜兵衛と伊右衛門の企みが漏れて、だまされていたと知ったお岩が激昂する「多葉粉屋茂助之事 附田宮伊右衛門前妻鬼女と成事」と題された章に入る。鶴屋南北東海道四谷怪談』では、髪梳きの場にあたる場面である。
『四ッ谷雑談集』は、文章が読みにくく、はっきり言えば悪文だったり、構成が散漫だったりすることから、国文学の専門家の間ではあまり評判がよくないのだそうだ(それ以上に由緒が不確かということの方が不評の本当の理由だろうが)。私は近世文学全般にはまったく無知で、怪談ばかり読んでいて比較の対象が少ないのだが、西鶴芭蕉や秋成らとは比較するまでもなく、『死霊解脱物語聞書』や『皿屋敷弁疑録』と比べても、確かにそういうことは言える。おそらく書き手は、物書きとしては三流のセミプロクラスか、多少は筆のたつ市井の半教養人といったタイプの人ではないかと思う(だから『雑談』に魅かれるのかもしれない)。
しかし、この章に限って言えば、「お岩伝説」が語り継がれるきっかけとなった出来事をテンポよく語っていて、名文とまでは言わないが、これは他に語りようがないくらいにピタッと決まっているように感じる。諸般の事情で『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』には原文を載せることができなかったが、この章は載せたかった。
というのも、この章の描く場面が上巻のハイライトシーンであるという理由のほかに、上巻の現代語訳を作っている時点では原文も載せる方針で編集作業が進行していたため、直訳するとわかりにくくなるところは意訳しているうえ、誤解を招きかねない遊びも入れてしまっているからだ。
また、『四ッ谷雑談集』の時代設定のアンチノミーがこの章では特徴的に出てくるということもある。そして、これは『実録四谷怪談』の底本とした享保十二年の年記をもつ写本でなければ、はっきりとはわからないのである。

多葉粉屋茂助

「多葉粉屋茂助之事 附田宮伊右衛門前妻鬼女と成事」は、章タイトルの通り、前半が多葉粉屋茂助による真相の暴露、後半がお岩が鬼女のごとく怒り狂って失踪する場面を描く。もともと短いし、ひとつながりの話だが、便宜上、前半と後半に分けて述べる。
「爰に多葉粉屋茂助と云者有」と『雑談』上巻のクライマックスシーンは語りだされる。多葉粉屋茂助は四谷界隈で刻み煙草の行商を生業としていた者で、お岩の父・又左衛門の代から田宮家に出入りしていたが、四谷から番町までは近いので煙草を売る道すがら、ふと立ち寄った番町の旗本屋敷でお岩を見つけた。
「文政町方書上」でも「刻煙草背負ひ商茂助」とその名を記録されている茂助は『雑談』ではこの場面にしか登場しないが、南北の『東海道四谷怪談』で言えば宅悦にあたる役割を担う重要人物である。
前にもふれたとおり、刻み煙草の行商は『久夢日記』によれば貞享の頃から始まったとされる。だから、茂助の登場するこの場面は貞享年間が想定されているはずである。だとすると、茂助がお岩に会ったのは、伊右衛門の再婚から少なくとも十年以上たった時点でのことのはずだが、このことについてはまた後で述べる。
茂助はお岩に懐かしげに声をかけ、どうなさっていましたかと尋ねた。お岩はそれに次のように応えた。
伊右衛門の道楽のため、生活の苦労はたとえようもなかった。だから、自分から縁を切り、奉公に出たが、つらい所帯を持つよりは今ははるかにましである。伊右衛門は道楽を止めたろうか。比丘尼を請け出して囲っていたと聞いていたが、もううちに引き取ったのか。さすがの比丘尼伊右衛門の道楽には困っているだろう。気の毒なことよ(「笑止成事や」)。」
まずこのセリフからわかることは、ここには現代のわれわれが考えるような嫉妬の感情はかけらもないということだ。実にさばさばしたもので、伊右衛門にはなんの未練もない。お岩にとって、比丘尼(実はお花)との三角関係などどうでもよいことで、つらい所帯(「悲敷所帯」)の問題は、伊右衛門の(偽りの)賭博狂いによる生活苦だったのである。だから、自分が働きに出て、生活が安定した今の方がはるかにまし(「今は遥増也」)なのだ。
次に、もう比丘尼をうちに引き取ったのか(「最早内へ引取給ふらん」)と言っているから、お岩が四谷を出てからさほど時間がたっていないことがわかる。もし何年もたっていればこうは言わないだろう。おそらく一年以内である。お岩は自分が家を出た後、四谷左門町で何が起きたか何も知らない。
そこで茂介は、「書上」の記述では「伊右衛門方様子、本末不残風聞致候」、つまり伊右衛門についての噂を洗いざらいぶちまけた。私が『実録四谷怪談』で意訳してしまったのはこの箇所なので、『雑談』から原文を引いておく。

扨は未御存なく候哉、おいとしや伊右衛門様のどふらくは皆偽事也。其故は伊東喜兵衛の妾お花殿を伊右衛門様の女房にせんと企たれ共、御身様は家に付たる御方なれば、此方より離別すると云ふ事ならず、御身様に飽きられ其方様より縁御切候様に仕掛ん為、喜兵衛様、長右衛門殿、伊右衛門様三人相談にて、伊右衛門様どうらくの眞似をして終には其通に成ぬ。おいとしや御身様は左様な企とは御存なきこそ気之毒なれ。最早七月十八日お花殿を御向ひ被成し也。昨日も参見候に見れは見る程美敷女中にて、見る人浦山しからぬはなし

読み比べていただければわかると思うが、『実録四谷怪談』p62-p63で、「伊右衛門様のどふらくは皆偽事也」を「伊右衛門様の道楽はみなうそ」、「御身様に飽きられ」を「あなた様に愛想をつかさせて」、「左様な企とは御存なきこそ気之毒なれ」を「そうとは知らずだまされて、近頃もって気の毒千万」と現代語訳したのは、南北の『東海道四谷怪談伊右衛門浪宅の場における宅悦のセリフを意識してのことである。特に「近頃もって気の毒千万」は「芝居」からの引用である(宅悦「さうとは知らいでうかうかと、一盃まゐつたお岩様、近頃以て気の毒千万」)。これらは原文併載を前提として、私がイタズラ心から遊びとしてやったことをここにお断りしておく。
さて、茂助のセリフで注意するべきなのは「喜兵衛様、長右衛門殿、伊右衛門様三人相談にて」とあることだ。『実録四谷怪談』の注やコラムでもふれたが、『雑談』の筋書き通りなら秋山長右衛門は喜兵衛と伊右衛門の謀議に加わっていない。長右衛門は再婚の仲人を頼まれて引き受けただけである。
ちなみに「書上」では、喜兵衛は伊右衛門を説得する際、長右衛門も同席させている上、お岩を説得する際も長右衛門夫婦がかかわっている。
史実がどうだったかは別として、『雑談』に先行する江戸の都市伝説としての「お岩伝説」では、「書上」のように秋山長右衛門も謀議にかかわっていたと考えたほうがよさそうだ。『雑談』作者は伊藤喜兵衛という魅力的な悪役を描くのに熱心なあまり長右衛門の関与を書き落としたが、おそらく「お岩伝説」の原型に近い茂助のセリフの中では伝えられていたままに書いたということではないだろうか。
全てを知ったお岩は烈火のごとく怒った。