「四谷怪談」を読む(十五)紙売又兵衛

ちょっと補足するだけのつもりで始めたのだが、こんなに長く続けても、まだ三分の一にも至らない。このブログも週刊四谷怪談みたいになってしまった。
お岩は、伊右衛門から離縁状を取り、伊東喜兵衛の紹介する四ッ谷塩町の紙売(紙屋)又兵衛を請人(保証人)として、番町の旗本屋敷に奉公に出た。この大筋は『四ッ谷雑談集』でも『文政町方書上』でも同じである。
鶴屋南北の『東海道四谷怪談』ではこの経緯はばっさりカットされていて、「芝居」のお岩は、半日のうちに伊藤喜兵衛から贈られた毒薬と伊右衛門の暴力に苦しみながら、謀議の真相を知って憤死する。
『雑談』のお岩はこの離婚を悔やんでいない。「お岩大に悦」、「お岩は一向鰐の口を遁たる心地して奉公勤居たりける」とあるから、貧苦と夫の暴力から逃れることができて、さばさばした気持であったろう。こうした性格は京極夏彦の小説『嗤う伊右衛門』にも引き継がれている。

紙売又兵衛

お岩を三番町の旗本屋敷に斡旋した紙売又兵衛は、屋号のとおり紙屋を営みながら、人材派遣業にも手を染めていたのだろう。
ところで、この紙売又兵衛、「書上」では紙屋又兵衛にもモデルがいる。元禄八年の四谷大火の火元となった家として『元禄世間咄風聞集』に出てくる紙屋庄兵衛のことだと思われる。なお、『元禄世間咄風聞集』の記事は元禄七年の項に含まれているが、岩波文庫の校注者・長谷川強氏は、「『御当代記』によれば元禄八年。この前数項ぐらいより八年の記事か」と注している。

二月八日昼八つ時分より、四谷塩町紙や庄兵衛と申すもの所より出火仕、さめが橋・青山・麻布・赤坂・田町・ひが久保・三田・新堀・四国町・芝牛町迄、焼失軒数六万七千四十五軒、横壱町に〆八里ほど。(『元禄世間咄風聞集 (岩波文庫)』より)

四谷から芝のあたりまで焼けたというからたいへんな火事だったわけだ。この四谷の大火は『雑談』が描く時代におさまるはずだし、この火事で左門町の町名の由来となった諏訪左門の屋敷が類焼している(『御当代記』)にもかかわらず、『雑談』も「書上」も火事について一言も触れていない。
また『雑談』では、伊右衛門に再婚の仲人を頼まれただけの秋山長右衛門も祟りの対象として描かれている(この経緯は「書上」とは異なる)。この例からすれば、紙売又兵衛の場合も、伊東喜兵衛の片棒を担いだためにお岩の祟りにあって火事の火元となって滅びたとした方がよほど自然であるのに、『雑談』ではそうは書いていない。ここは腑に落ちない。
考えられる理由は二つある。
一つは、『雑談』は武家の堕落については厳しく批判的に描くが、町人についてはそうではない。むしろ、『雑談』に登場する町人たちは、おおむね実直な正直者として描かれている。小股くぐりの又市だけは、大うそつきの手だれとされていたが、その又市が祟りにあったという記事はない。又市はお岩追放劇にかかわっていないので免除されただけかもしれないが、これは『雑談』作者の執筆意図に関係しているように思う。
もう一つ、考えられる理由としては、原「お岩伝説」の枠組みを維持しなければならなかったから、ということが挙げられる。

爰に左門殿町御先手与力伊東喜兵衛、同組田宮伊右衛門、秋山長左衛門、此三人の者共人の恨報ひに依て其家永く絶ぬる

果して伊東喜兵衛か方にて三人、田宮伊右衛門が方にて七人、秋山長右衛門が方にて五人、都合十五人元禄の頃迄お岩か為に取殺されて、其家永く絶、昔語に成けるこそ恐しけれ。

喜兵衛、伊右衛門、長右衛門、三人の者共安穏にてや置べきか

いずれも『雑談』からの抜き書きだが、実は『雑談』本文の筋書き通りなら伊東家にはお岩のために取り殺されたと言える人物はおらず、田宮家の死者は六名で、数が合わない(ついでにいえば秋山家の死者も病死である)。つまり、このことは、上に抜き書きした文章が、『雑談』作者による要約ではなく、『雑談』成立以前からの言い伝えであったことを示している。
『雑談』作者は元の伝説の枠組みを維持しようとしながらも、物語を面白くしようとしてのことか、それとも、独自の情報源から得た話題を取り込んだからなのか、細かいところでは齟齬が生じた。しかしそれでも、入り婿にだまされて家を乗っ取られたお岩という女性の祟りで四ッ谷の御家人が三家断絶になった、という枠組みが維持されなければ、それは「四谷怪談」ではなくなってしまう。そこで、『雑談』の物語の流れからすれば不自然ではあっても、お岩の呪いはあくまで「喜兵衛、伊右衛門、長右衛門、三人の者共」とその縁者に限定され、紙売又兵衛には及ばないのである。