「四谷怪談」を読む(十四)お岩を説得したのは誰か

さて、いよいよ『四ッ谷雑談集』のヒロインお岩と真の敵役伊東喜兵衛が直接対面する(伊東喜兵衛田宮伊右衛門か女房に初て対面之事)。
夫の放蕩に困り果てていたお岩のもとに伊東喜兵衛が使いを寄こし、お岩が伊東家を訪ねてみれば、喜兵衛はよく来なさったと彼女を歓待する。鶴屋南北東海道四谷怪談』でも、伊藤喜兵衛の屋敷から頻繁に贈り物が寄こされる(「ハテ、あの内からは気の毒なほど物を送る」)が、今回、比較してみたいのは「芝居」ではなく「文政町方書上」(以下「書上」)の方である。
『雑談』の伊東喜兵衛は、お岩を出迎え、茶や酒をすすめるなどしてもてなしながら、お若く見えるだの、お肌の色つやもいいだの(聞しよりは年も若、油付随分息災そうに見へ給ふ)とおだてあげる。これはお岩が疱瘡の後遺症で腰が曲がり、皮膚が渋紙のようだったという記述をふまえれば、見えすいたお世辞である。『雑談』の作者はそのように読者が受け取ることを意識して書いている。
この後、喜兵衛がいかにも面倒見の良い上司のようなことを言うが、それも大酒呑みのお岩が、すすめられるままに酒を飲み、酔いがまわったところを見計らってから、とされている。これも喜兵衛のずる賢さを印象付ける表現である。
こうした細かい記述は、元のお岩伝説にはなかったろう。狡猾な上司が部下の妻を言いくるめる場面として、『雑談』作者が創作したのだと思われる。

喜兵衛の年齢

さて、喜兵衛は次のようなことを言った。
伊右衛門の道楽には困ったものだ。お頭のお耳に入れば罷免になる。そうなればお岩も路頭に迷うことになるのが可哀そうだ。上司である自分から言うと角が立つから、妻のあなたから内々に意見をしてやってくれ。云々。
このようなことを、さも親しげに、諄々と諭す。この場面で注目されるのは、喜兵衛がお岩に「弐人の親達は若時よりの名染なれば贔屓に思ふ也」と言っていることだ。このセリフをどう取るか。
われわれ二人のそれぞれの親同士は若いころから親しくしていたから自分もお岩を親しく思う、という意味であれば、喜兵衛とお岩も同世代ということになる。しかしそれでは喜兵衛が、年をとってから子どもを持つのは世間体が悪いというのがわからなくなる。やはり「弐人の親達は若時よりの名染」というのは、お岩の父・又左衛門と喜兵衛自身のことと考えた方がすんなりくる。
喜兵衛が又左衛門と同世代だとすると、又左衛門は数えで五一歳で亡くなっているから、喜兵衛も五十歳台前半のはずである。これは「書上」の「喜兵衛五拾有余ニ罷成」という記事とも一致する。そして、『雑談』の喜兵衛の没年は八九歳だったとされるので、ここから『雑談』で描かれる物語の時代設定がかなり絞られてくる。寛文の終わり頃(1670年前後)から宝永年間(1704〜1710)にかけての三十数年間が『雑談』の描く物語の背景にある。
これは浅草の花見から始まり、その年の暮れの吉良邸討ち入りで終わる「芝居」と比べると、ずいぶん間延びした設定である。「芝居」のテンポに引きずられて『雑談』を読むと時間の感覚がずれてしまうので注意しなければならない。

協議離婚のすすめ

さて、お岩は喜兵衛の忠告に涙を流して礼を述べた。そのセリフのうちに「伊右衛門が心には如何成天魔の入替り候哉らん。一月の内五日とは宿に伏り不申、一人召仕候下女にも暇遣し其上内証の入用の物迄も童には宛行不申」とあるので、伊右衛門の態度急変から一カ月ほどたっていること、お岩の家では下女を一人雇っていたこと、伊右衛門が金を家に入れなくなったことなどがわかる。
喜兵衛の屋敷から帰ったお岩は行く末を案じて眠れない夜を過ごす。朝方、伊右衛門が帰宅して、昨夜はどこに行っていたとお岩を難じてさんざんに暴力をふるう。もう我慢できないと思ったお岩は、喜兵衛のもとに駆け込む。
お頭の前へ出て、伊右衛門の所業を訴え、追放してもらおうと思う、もし、私が負けてもその時はしかたない、とにかくこのままではおけない。
喜兵衛は思いつめたお岩をなだめながら、さも穏便に調停するかのようにして解決策を言い聞かせる。このセリフは長いので引用しないが、要点は、お頭に訴えても、お岩側が負ける。お上は女の言うことを取り上げないので、お岩一人が損をする。そうはいっても、自分にとってはお岩は親の代からの馴染みだし、伊右衛門とも親しくしているので、二人とも身の立つようにしたい。伊右衛門は婿入りに際して十五両の持参金で地位を買い取ったかたちになっているから、お岩が彼を追放することはできない。この上は納得づくで離婚しなさい。よい勤め先を紹介するから、そこで身を立てればよい。二、三年ほどそこで勤めて(縁切奉公なれば二三年も勤)、その後は、また私が保証人になってよい結婚相手を斡旋してあげる。伊右衛門が取り上げた衣類・寝具などはみな取り返してあげるから、伊右衛門から離縁状を取って、独立しなさい。(このやりとりは『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』でほぼ逐語訳しているので詳しくはそちらをご覧いただきたい)。
これは、もし、お岩を追いだすための策略だったという『雑談』の設定がなければ、当時としては穏当な調停案だったのかもしれない。それはそれとして、「書上」ではどうなっているか。

秋山長右衛門

「書上」で調停案を示してお岩を説得するのは、隣家の秋山長右衛門夫妻である。お岩を喜兵衛宅へ呼びよせて諭したとあるので喜兵衛も同席していたことはもちろんだが、説得の主役はあくまで長右衛門である。『雑談』では伊右衛門再婚の仲人を引き受けるまで長右衛門は出てこない。これは『雑談』と「書上」の大きな違いである。
「書上」で長右衛門が示した調停案も『雑談』とはニュアンスが違う。協議離婚して外に働きに出た方がよいとすすめているのは同じだが、長右衛門夫妻は、伊右衛門の放蕩癖がなおったら復縁することを前提にして、「一旦夫トより離別請」ることをすすめている。『雑談』の喜兵衛が、伊右の道楽はなおるまい、そなたにはもっといい男を紹介してやるから別れてしまいなさい、と言うのと大きな違いだ。
どちらかが本当で、どちらかが誤りなのだろうか。
成立が古いからといって『雑談』が事実だとは言えないのは、上に見たように『雑談』には小説的作為が見てとれることからも明らかだ。しかし、喜兵衛宅で喜兵衛と長右衛門が同席してという「書上」の設定も、南北の「芝居」の影響があるかもしれない。これはわからない。
どちらでもない場合もあり得るし、その可能性の方が高い。
『雑談』は最初に四谷左門町の由来についての前置きめいた一文があって、その次の「田宮又左衛門病死之事 付小股くゝり又一事」から本編がはじまるが、話の枕のような新田義貞の言葉のあとの、「爰に左門殿町御先手与力伊東喜兵衛、同組田宮伊右衛門、秋山長左衛門、此三人の者共人の恨報ひに依て其家永く絶ぬる」が実質的な書き出しである。ちなみに原文のここのところは秋山長左衛門となっているが、ほかのところでは秋山長右衛門である。
これが『雑談』と「書上」に共通する認識であって、これをはずすと「四谷怪談」ではなくなるのではないだろうか。つまり、「四谷怪談」のもととなった「お岩伝説」とは、同じ四谷左門町に住んでいたこの三家に起きた不幸を、お岩という女性の祟りとして語るものだったのだろう。
だから、秋山長右衛門の存在は欠かせないのだが、しかし、彼がどのように事件に関係していたかは、もともとはっきりしていなかったのではないか。伊右衛門宅の隣に住んでいたことだけが確かなことで(これは『雑談』「書上」に共通する)、どういう事情で秋山家が不幸の巻き添えを食ったのかは、噂の語り手によってまちまちで、『雑談』の作者は伊東喜兵衛に関するゴシップを中心に全体を構成したので喜兵衛が謀議の中心となり、「書上」の記録者である町名主たちは喜兵衛について詳しく知らなかった、ということも考えられる。