「四谷怪談」を読む(十六)伊右衛門、再婚へ

お岩は喜んで三番町の旗本屋敷に奉公に出た。これで伊右衛門は晴れてお花を妻に迎えることになった。それは御家人たちが最初に考えた解決案をウソによって実現したもので、伊東喜兵衛の策略は、ウソさえばれなければ八方丸く収まるはずのものだった。
嫁入りの前に、喜兵衛は懇切にお花の意志を確かめている。また、お花を嫁に出す際の態度は、妾を腹の子ごと部下に押し付ける傲慢な上役というより、娘の嫁入りを見送る父親のようだ。変則的な再婚に物言いがつかぬようにあれこれ気を配るところにも、悪逆無道といった紋切り型にはおさまらない喜兵衛の人物像があらわれていて面白い。

七月十八日

さて、伊右衛門とお花の婚礼は七月十八日に行われることになった。これは『四ッ谷雑談集』も「文政町方書上」も一致している。ただし「書上」では貞享四年(1687)としているが、『雑談』には何年かということは書かれていない。『雑談』にはしばしば日付が出てくるが何年かということはわからない。「書上」では貞享年中とか元禄年中というように何年頃ということは出てくるが日付までは書かれていない。その「書上」でただ一か所日付まで書いてあるのが、伊右衛門の再婚の日、七月十八日である。
ここで、実はこの七月十八日という日付にはこういう理由があって云々…、と講釈できれば恰好がつくのだが、わからない。
『雑談』と「書上」が、何年かは別として、一致して七月十八日という日付を記すには何か理由があるはずではないかと思われるのだが、『武江年表』をながめ、念のためネット検索もしてみたが、ネットに真実は落ちていなかった。

近藤六郎兵衛

さて、晴れてお花を妻に迎えることになった伊右衛門は、先輩格の近藤六郎兵衛に仲人を頼むが、六郎兵衛はしばらく思案して、これを断る。理由は二つ。
第一に、六郎兵衛の「女房は御身の前妻の為には黒漿親也」、前妻、すなわちお岩の黒漿親である。黒漿親とは、結婚にあたって新婦の後見を務める女性のことで、仲人よりも新婦側に立つべき立場にある。おそらくは結婚後も相談役として新妻をフォローし、道義上の親代わりを務める役なのだろう。したがって、お岩を離別しての再婚の仲人を近藤夫妻が引き受ければお岩に対して義理を欠くことになる。
第二の理由は、「其上喜兵衛と我心よからねば旁以此事取持にくし」、六郎兵衛は喜兵衛と仲が悪かった。だから、喜兵衛が妾を妹分として嫁に出す結婚の仲人はできない。「外を御頼もや」、他を当たれ、と六郎兵衛は突っぱねた。
この近藤六郎兵衛は、『雑談』のなかで、しばしば登場する。お岩の父・又左衛門の同僚で、年齢はおそらく喜兵衛・又左衛門と伊右衛門の中間くらいの四十台、たぶん秋山長右衛門と同年輩だろう。四谷の御家人たちのなかではアンチ伊東派で、喜兵衛の所業を苦々しく思っているという設定である。
この後、六郎兵衛は伊右衛門の再婚の宴席に出る。お岩の祟りがはじまってからは、山伏にお岩の霊を呼び出してもらったらどうかと伊右衛門にすすめたり、道端で見かけた乞食女を「あれはお岩によく似ている」と言いだして、秋山長右衛門の息子を脅かしたりしている。
もし、『雑談』の記事が八割方事実で、特に近藤六郎兵衛については書いてある通りだとしたら、彼はお岩の親たちの代からの付き合いがあり、喜兵衛には批判的だが伊右衛門とは親しく、内情をよく知る立場にあり、少なくとも元禄十三年までは生きていて、子の世代にお岩のことを語り継いだわけだから、近藤六郎兵衛は、お岩伝説の最初期の語り手のモデルと言えそうだ。
近藤六郎兵衛に仲人を断られた伊右衛門は、やはり職場の先輩の秋山長右衛門に頼み、長右衛門はこれを引き受けた。
いよいよ、伊右衛門の再婚の婚礼となる。