「四谷怪談」を読む(十一)喜兵衛の役割

喜兵衛妾お花が妊娠した。前回、お花は架空の人物で、お梅の分身かもしれないと推測したが、便宜上、『四ッ谷雑談集』の筋立てに沿っていく。
やがてお花が産む子は、お染と名づけられ、田宮家の長女として育つ。ちなみに、鶴屋南北東海道四谷怪談』のもう一人ヒロインお袖(お岩の妹)の名は、このお染から来ているのかもしれない。
それはともかく、愛妾の妊娠を知った喜兵衛はとんでもないことを思いつく(近頃慮外成思ひ付)。伊右衛門にお岩を離縁させ、替わりにお花を腹の子ごと伊右衛門に引き取らせようとするのである。「文政町方書上」でも経緯は同じように書いてある。この設定は強烈で、なるほど喜兵衛は悪党だという印象を強く与える。ところが、南北はこの設定を採らなかった。
「芝居」の喜兵衛は、伊右衛門に一目ぼれした孫娘お梅の願いをかなえようとしてお岩に毒を盛る。「面体崩るゝ秘方の薬」「面体かはる毒薬」を「血の道の薬」と偽って飲ませ、お岩の顔を醜くし、伊右衛門が彼女を嫌うように仕向けようとした。どちらがひどいかは、人によって受けとり方が違うだろうが、「芝居」の喜兵衛がお岩を殺すつもりではなかった(「しかし命に別条なし」)ことを考え合わせると、孫可愛さに罪を犯す方がまだ理解ができそうな気がする。
これは動機に注目するからそうなる。結果に注目するとそうでもない。いずれの場合もあとで秘密がばれて大騒ぎになるのだが、それさえなければ『雑談』の喜兵衛がやったことは、見方を変えれば離婚の調停、就職の斡旋、再婚の世話であって、上手くいけば三方丸く収まるはずだった。「芝居」の筋書きだと、たとえお岩が死なずにすんだとしても、決して消えない傷跡を残すことになるから被害甚大だ。
南北が「芝居」に毒薬を導入したことは「四谷怪談」の性格を考える上で非常に重要な事柄なのだが、まずは『雑談』の筋を追う。
おそらくお岩の父・田宮又左衛門と同世代の五十代で、そろそろ隠居してもおかしくない与力の伊東喜兵衛は、妊娠した妾を部下の伊右衛門と連れ添わせようとした。自分の後継ぎは養子と決めていたのだろう。『世事見聞録 (岩波文庫)』が憤慨しているように与力や同心の地位は売買の対象になっていた。養子をとるというのは、金で与力の地位を売るということだ。養子のもたらすはずの持参金で老後を送ろうと考えていたのだろう。だから、「男子儲たり共何の役にか可立。若又女子ならば弥身代の妨と成べし」と子どもをもつ喜びよりも金の心配が先に立った。これは「芝居」の伊右衛門の「このなけなしのその中で、餓鬼まで産むとは気のきかねへ」という小言を連想させる。
しかし、『雑談』の喜兵衛は子ども嫌いというわけではない。後になっての話だが、お花の子も生まれてしまえば可愛くて、なんのかのと世話を焼いているし、若い頃には自分の乳母の孫を可愛がってあやしたこともあった。子どもが嫌いなのではなく五十過ぎまで親になった経験がなかったので子を持つ実感がわかず、それよりも自分の人生設計が変わってしまうことの不安の方が強かったのではないかという気がする。
「書上」には「喜兵衛五拾有余ニ罷成老年之出生、人口を厭ひ」とあり、『雑談』でも「我白髪頭に成て妾腹に子持たる抔と世間の取沙汰も口惜し」と、老いてから子をもうけたことで他人の噂になるのが厭わしいと言っているが、氏家幹人江戸老人旗本夜話 (講談社文庫)』によれば老いてから子をもうけた例はいくらもあり、めでたいことではあっても世間体が悪いということではなかったらしい。つまり、喜兵衛が伊右衛門に子持ちの妾を引き取らせようとする動機についての、「書上」や『雑談』の記事はかなり疑わしいところがある。もっとも、そもそも「書上」にしても『雑談』にしても、本人に取材した記録ではないので、動機については詮索してもしかたがないからこのあたりで打ち切る。
さて、喜兵衛は伊右衛門を呼び寄せて腹の内を探り、脈有りと見るや説得にかかった。『雑談』のこの場面は、まるで見てきたような書きッぷりだが、もちろん創作だ。創作だが、伊右衛門が本音をもらすとすかさずたたみかけていく喜兵衛の話術といい、気持ちは傾きながらも逡巡する伊右衛門の態度といい、なかなかリアルに書けていて上手い。おそらく浄瑠璃か歌舞伎か、はたまた浮世草子か、なにか手本にした先行作品があったのだろう。
こうすればうまくいく(ヶ様ゝの手立こそ能れ)と喜兵衛が伊右衛門に吹き込んだ策とは、伊右衛門が博打や女などの道楽にはまったと見せかけて、お岩に愛想を尽かさせ、お岩の側から離縁を言い出させるというものだった。なぜそんな手の込んだ仕掛けをしたかというと、お岩が田宮家の跡取り娘(家に付たる御方)であるため、伊右衛門の側からお岩を離別することができなかったからである。この描写は江戸時代の武家の婚姻を考える上で重要なことだと思うのだが、家族史研究で『雑談』に言及した例を知らない。
喜兵衛の策は、伊右衛門に放蕩の真似ごとをさせるだけではなかった。一方でお岩に親しげに近寄り、伊右衛門と別れないとお岩自身が損をする、それよりは家を出て、よそで奉公でもした方がよいのではないかと吹き込んだ。これを真に受けたお岩は伊右衛門と離別して、喜兵衛の手配した屋敷奉公に出たのである。
さて、結局、喜兵衛の策とは、手は込んでいるけれども結果だけ見れば、又左衛門が死んだ当初、善後策として御先手組の同僚たちが立てたものと同じである。又左衛門の後継をどうするか「同組の者共」が「寄合」って出した案とは「所詮今父にをくれ、無常心の覚ぬ内に旦那寺の和尚に進めさせ尼に成か、左もなくは奉公人にして此家を出して後、如何成浪人成共見立、又左衛門跡を続せ、母を養するより外の了簡なし」というものだった。これはお岩の頑強な抵抗にあって実行に移されなかった。それを手順こそ少し違うが実現したのが喜兵衛である。お岩を外に出してから養子をとるという当初の案とは順番が逆になったとはいえ、喜兵衛の策と「同組の者共」の了簡とは、お岩が外に出て伊右衛門に後を継がせるという結果は同じである。
つまり、『雑談』の描くお岩追放劇における喜兵衛の役割とは、御家人たちの職業共同体が考えて実行できなかったことを代わりに遂行したとも言える。