初怪異

昨日、午後五時ごろ、仕事が一段落して、疲れた眼を休めようと神田川沿いの歩道でぼんやりしていると、江戸川橋の方角から一人の男性がこちらに歩いてくるのが目についた。黒いオーバーコートを着た大柄な中年男性で、喉にたんでも絡んでいるのか、しきりに咳払いをしている。その一歩後ろくらいをグレーのヤッケだかパーカーを着た少年がついて歩いている。背丈からして小学校高学年か中学生くらいか。
なんとなく父と子のような印象を受けた。父親(らしき男性)が咳払いを繰り返すのは風邪を引いているためではなくて、子どもに何か小言でも言いたいのか、あるいはせき立てるためであるかのような気がした、というのは私の勝手な空想である。
その男性は、私の立っていたところのすぐ手前で横丁に折れて新目白通りの方に歩いて行った。私は目を疑った。ついさっきまでそのすぐ後ろを歩いていた(ように見えた)少年の姿がなかった。男性が歩いてきた道と、大通りに向かっていく男性の後ろ姿を、交互に見比べたが、少年の姿はない。男性は相変わらず小さな咳ばらいをしながら足早に遠ざかっていく。私が最初に男性の姿に気づいたところから、彼が角を曲がるまでの間には、左手には神田川、右側は建物である。男性が曲がった角まで、横に入る道はない。少年の姿は消えてしまった。幻だったのである。
この少年の姿の幻を何に分類しておくか。
第一候補はつねに錯覚である。だが、何を少年と錯視したのか。枯れススキにあたるものがない。あえて言えば、男性のあるいて来た道沿いにあるビルの壁面がグレーに見えなくもないが、少年の姿かたちはそこからは出てこない。
第二候補は、人の姿をしている幻だから幽霊なのだが、そうだと断定するためには、少年の身元がわからないといけない。前を歩いていた男性と関係があるように思えたが、それは私の主観的印象なので何とも言えない。少年の姿が見えているうちに誰何しておけばよかったのだが、あとのまつりである。
錯覚も幽霊も決め手を欠くので、結局、妖怪枠に放り込むことになる。道の怪の一種ということになるのだろうか。とりあえず、記憶が薄れないうちにメモしておいた。