高橋哲哉『デリダ』第4章

何かヒントが得られるのではないかとデリダベンヤミン『暴力批判論』を論じた『法の力 (叢書・ウニベルシタス)』を開いてみたが、参考書にするには(無理?)難しすぎて歯が立たなかったので(当たり前)、高橋哲哉による解説『デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)』を読む。
私はデリダを学生時代に何冊かを読んで、あまりの難解さに投げ出してしまった。
その難解なデリダも高橋の手にかかると、理路整然と説かれるところが驚異だが、その説くところはやはり矛盾そのものである。いや、高橋が、あるいはデリダが論理矛盾であるなどということではなくて、整然たる理路が問い詰めていくものが矛盾だということだ。
「あらゆる法の「起原」には無根拠な暴力がある」(高橋、p192)というのは、ベンヤミンの法措定的暴力のことだろう。

法の創設、「立法」の行為は、本質的、構造的に無根拠な「力の一撃」であり、実力行使である。議会などで「合法的」に立法する場合でも、当の議会自身の「合法性」の起原、その「権威」の起源をさかのぼっていけば、必ず、それ自身はもはやどんな法に従っているともいえない「力の一撃」に至るだろう。(高橋、p193)
ある法は〈法の支配〉(rule of law)のもとで合法的でありうるけれども、〈法の支配〉それ自体は合法的ではありえない。(高橋、p194)

それならば、無根拠なものは廃棄されるべきなのかというとそうはならない。

言語も法も、特異な他者への暴力を含んでいる。他者への関係、社会そのものの創設と維持にかかわる根源的暴力である。だが、言語も法もその全面的廃棄は最悪の暴力につながる以上、われわれは「暴力のエコノミー」のなかから、「最小の暴力」をとおして「際限なく正義の方へ向かっていくほかはない」。言語(ロゴス)の脱構築も、法=権利の脱構築も、あの「暴力に対抗する暴力」として以外には遂行されえないのだ。(高橋、p206)

このあたり、大塚英志が『憲法力―いかに政治のことばを取り戻すか (角川oneテーマ21)』で語っていた自覚的にする偽善ということと相通じるものがあるように思う。
高橋はこの「暴力に対抗する暴力」をデリダベンヤミン解釈に触れながら次のようにもいう。

どんな「正しい」決定も、またどんなに非暴力的に平和裡になされた決定も、決定であるかぎり法創設行為の原暴力を反復せざるをえない、という事態がここにある。いいかえれば、どんな決定も決定であるかぎり、決定不可能の試練を経た決定であっても、不可避的になにほどかはプラトン主義的なのである。にもかかわらず、法=権利の脱構築はこの過程を経ずにはありえない。既存の法=権利へのどんなラディカルな批判も、いっさいの法=権利を絶滅する−−そんなことが可能だろうか?−−のでないかぎり、この構造の外に出ることはけっしてできないのである。そうだとすれば、問題は、法創設行為の反復を差異を含んだ反復として、しかも「際限なく正義の方へ向かっていく」差異を含んだ反復として実践していくことだろう。それはすなわち、みずからの(言語)行為の暴力性を可能なかぎり縮減しつつ、新たな決定=解釈の瞬間に、「決定不可能なものの経験における決定」のためのチャンスを、いいかえれば、特異な他者たちの呼びかけに普遍的に応えるというアポリアの経験からの決定のチャンスを見いだすことにほかならない。(高橋、p212)

高橋は「際限なく正義の方へ向かっていく」という文句を繰り返し引用しているが、その正義とは何か。

ところで、「正義それ自体」や「脱構築それ自体」というようなものは「存在する」ものではない。リアルな存在者としても、イデア的な存在者としても、また人であれ、物であれ、秩序であれ、体制であれ、なんであれとにかくそういった「あるもの」として現前的に存在しうるものではないのである。(高橋、p190)
「決定することだけが正しい」にもかかわらず、どんな決定も現在、現前的に、かつ十全に正しい、正義であるとはいえない。要するに、すべての他者にその特異性において同時に応えることは不可能なのだから、どんな決定も、またどんな人も、どんな制度も、どんな法=権利も、十全に正しい、正義であるということはできない。(高橋、p214)

すると、こういう言い方が最近の哲学で通用するのかどうか知らないけれども、正義とは極限概念として要請されるのみ、ということなのだろうか。
神ならぬ人の身でなすことは、不完全で相対的であることはいうまでもないが、しかし、完全で絶対的なものがあるわけではない。それはないのだけれども、我が身の不完全さという事実から析出されるようにして正義が要請される?
ところが「私たちは結局のところ、形而上学存在論の言語以外の言語をもたない」(p191)ので、その正義は不適切にしか語りえない。
そこでこの不適切さとどこでどう折り合いをつけるか、ということが問題となる。

正義はアポリアの経験を要求し、決定不可能なものにとり憑かれることを要求するのだが、それにもかかわらず、いま、ここで、一刻の猶予もなく応答することを要求する。正義は「待ってくれない」のであり、「正しい決定はつねに、即刻、ただちに、もっとも早くなされるよう要求される」のである。決定するためには無限の情報が必要だとか、条件が整わないからなどといって、決定しないことを正当化することはけっしてできない。かりに十分な時間と必要な知識が全部与えられたとしても、決定の瞬間そのものが「待ったなしの慌ただしい有限な瞬間」であることにはまったく変わりがない、とデリダはいう。責任ある決定は理論的な知識や前提からのたんなる帰結や結果であってはならない−−そうでなければ、その決定は、つねに単一の特異な状況に応えるものではなく、規則やプログラムの適用になってしまう−−のだから、それに先立つ法的、倫理的、政治的、理論的熟慮に対して断絶をもたらすものでなければならないし、したがって、有限な決定以外のものではありえない。それは「どんなに遅くやってくるものであっても構造的に有限」であり、「非知と非規則の夜のなかで」なされうる以外にはないのである。(高橋、p215-216)

しかし「知や理論や計算や熟慮は当然必要であり、十分に「理性」の要求を満たす必要があるのはいうまでもない」(p218)ともいわれる。

正義は計算不可能だからといって、計算可能なものとのかかわりをいっさい拒否するならば、つまりたとえば法=権利や政治のレベルとのかかわりをいっさい拒否するならば、もっとも倒錯した計算が支配する最悪の事態をも招きかねないだろう。(中略)計算不可能な正義は、その要求の極度の切迫のために、計算不可能なものを考慮しつつ計算すること、計算不可能なものを「計算に入れる」ことを求めるのである。(高橋、p218)