「われわれ日本国民」とは誰か

いやあ、うっかりしていた。
昨日、kurahitoさんの記事を読んで気づかされたのですが、教育基本法与党案要綱の前文は「われわれ日本国民は、」と語り出されていて、この「われわれ日本国民」とは誰か、という問題がありました(http://d.hatena.ne.jp/kurahito/20060415/p1)。
あんまり無邪気に書き出されているものだから、うっかり見落としていましたが、これはたいへんなことではないでしょうか。
以下、素人の思いつきを書き留めておきます。

文化的マジョリティの居直り

教育基本法という法律の性格から、その前文の主語として言われる「われわれ日本国民」のこととして考えられるのは、事実上、選択肢は次の三つだろう。

  1. 教育基本法の定める日本の公教育の制度を利用する者
  2. 上記のうち日本国籍を有する者
  3. 上記のうち文化的マジョリティに属する者

頭数だけで見れば、三番目の文化的マジョリティが最も多いが、集合のベン図を描いてみれば、もっとも大きい枠組みは一番目の日本の公教育の制度を利用する者である。
私は法学の詳しい議論は知らないが、教育基本法前文の主語としての「日本国民」を一番目のように広く解すべきかどうかについても議論があるだろうが、それよりも、文化的マジョリティに属する者だけ、と狭く限定するのは、いかにも無理があるのではないか。だが、この前文の起案者の念頭にあったのは、明らかにこの無理のある三番目であったろう。そうでなければ「伝統」などとうかうかとは口に出せないはずだからである。
たとえば、三つのうち穏当そうな「日本国籍を有する者」としたところで、現在の日本国にはアイヌ系、旧琉球系、韓国系、中国系その他の外国系日本国民がおり、さまざまな文化を伝統として継承する人々がいる。そうした人々の継承する諸文化をすべて等価なものとして(現在の)日本の伝統として含めるのでなければ、法の下の平等という原則に適わないことになる。
その上、人間は移動するのだから、徹底した鎖国でもしない限り、新たにこれまでなかった文化を継承する人々が日本国民としてこの国に住むことになる可能性は消えない。「われわれ日本国民」を「日本国籍を有する者」とするならば、法律に「伝統」という語を書き込むことには慎重にならざるをえないはずだろう。
だから、教育基本法に「伝統を継承」などと書き込もうとするとしたら、それは文化的マジョリティの居直り以外には考えにくいのである。しかし、日本の文化的マジョリティというのは安心して居直ることができるほど一枚岩なのだろうか。

それぞれの伝統

そもそも、日本の文化的マジョリティ、いわゆる大和民族系にしても、地域や家庭によって伝統として継承されている文化はさまざまである。
ちなみに私自身は、あまり由緒正しくない清和源氏の末裔であり、いわゆる大和民族に属する者の一人であるが、秋田に住む母方の親族と、鹿児島に住む妻の里方の親族とでは、どうも同じ文化圏とはいえないような気がしている。鹿児島にナマハゲはいないし、秋田にガラッパはいない。
だいいち、言葉が違う。秋田弁と鹿児島弁ではほとんど外国語である。私たちたち夫婦のイトコ同士が出会っても、標準語を禁止したら、まず意思疎通は難しいことになるだろう。
しかも、東北弁といい九州弁といっても、東京で生まれ育った私にはピンとこないのだが、そのなかで地域ごとにかなり違いがあるようで、妻は子どものころ義父の転勤にともない鹿児島から福岡に転居した際、転校先の博多ッ子から「言葉がなまっている」とからかわれたそうだ(博多弁で)。また、私の秋田の叔父たちは「津軽の人の言葉はわからない」と言っていた(叔父たちが話しているのを従姉が標準語に通訳してくれた)。
ついでに言うと、よく標準語を東京弁という人がいるが、東京では標準語を話す人が圧倒的に多い、というだけで、厳密には違う。神田郵便局で地元の老人から話しかけられて、その江戸弁の名残をとどめた(下町の)東京弁に聞き惚れたことがあるが、あれは断じて標準語ではない。もちろん関東各地の方言とも違う。
私の狭い経験の範囲でもこれだけの違いがあるのだから、うっかりするとお国言葉が違っていても、しょせん同じ日本語なのだから大体は通じ合えると思ってしまうのは、テレビ用方言によってもたされた印象にすぎないのではないか。
言語は文化の基盤である。文化相対主義多文化主義も外側に向かって主張されるだけで、内側に対してはその多様性を無視して語られるとしたら、同調圧力以外の何ものでもないだろう。したがって与党案要綱の前文案に言う「伝統を継承し」とは、各人がそれぞれの伝統を継承することでなければならない。そうだとすると、これは学校教育を中心とする公教育の手に負えるものではなかろう。各家庭なり地域社会なりに任せるほかはない。

帝国臣民の文化

いや「われわれ日本国民」とは、あくまで文字通りの「日本国籍を有する者」であって、その継承すべき伝統とは、出自にかかわりなく日本国民ならわきまえておくべき普遍的な文化のことなのだ、という解釈かも知れない。国内限定の普遍性というのも中途半端な気がするが、とりあえずそれはよいとして、そうだとするとこの与党案要綱前文から読みとれる「われわれ日本国民」とは、「われわれ日本国民は、」に直接続く述語によって規定されることになる。

 われわれ日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うこと。

文末の「こと。」というのは、「(政府案では)、とのようにすること」という意味だろうから、「われわれ日本国民は、」の述語は「たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う」である。これが与党案要綱の「われわれ日本国民」の定義である。
これが現行法の「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した」を継承したものであることは一目でわかる。
したがって、これを指摘したkurahitoさんの慧眼にあらためて敬意を表しながら言うのだが、前文案が「さらに発展させる」ことを願っている「民主的で文化的な国家」とは、どうしても戦後憲法体制の日本国のことでなければならない。そうすると、「われわれ日本国民」が継承すべき伝統とは、約60年ほどの実に短いタイムスパンではかられることになる。ミニマムな視点では「伝統」という言葉に値する文化の継続もあるだろうが、一国の教育と文化を語る言葉としてはちょっとスケールが小さいような気もする。
しかし、ここが考えどころで、現行の日本国憲法大日本帝国憲法の改正によって成立したものであることを考えあわせると、起案者もなかなかやるなあ、と思わせられる。
日本国は大日本帝国の相続者であり、そこには連続性が認められる。しかし、明治維新は、徳川幕府に対するクーデターであり、そこには体制の断絶が認められるから、大日本帝国−日本国の伝統は江戸時代にはさかのぼらない。
したがって、日本国民が継承すべき伝統とは、大日本帝国以来の伝統、帝国臣民の文化、ということになる。
これが与党案要綱前文の主語「われわれ日本国民」が継承すべき文化として、もっとも合理的な解釈である、と思うがどうだろうか。