「公共の精神」

教育基本法与党案要綱に言う「公共の精神を尊び」とか、「公共の精神に基づき」というのがよくわからなかったが、次のようなことではないだろうか。
「公共の精神」という言葉は、与党案要綱のうち、前文と「2 教育の目標」三に出てくる。前文では次のような形で出てくる。

 われわれ日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うこと。
 この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進すること。

「2 教育の目標」では、次のようになっている。

 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

なんのことだかよくわからなかったが、ふと思い出して中教審答申を読んでみると次のような説明があった。

(社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神、道徳心、自律心の涵養)
○ これからの教育には、「個人の尊厳」を重んじることとともに、それを確保する上で不可欠な「公共」に主体的に参画する意識や態度を涵養することが求められている。このため、国民が国家・社会の一員として、法や社会の規範の意義や役割について学び、自ら考え、自由で公正な社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神を涵養することが重要である。さらに、社会の一員としての使命、役割を自覚し、自らを律して、その役割を実践するとともに、社会における自他の関係の規律について学び、身に付けるなど、道徳心や倫理観、規範意識をはぐくむことが求められている。

はあ、なるほど、ご立派なお話だ。
もっとも、「「公共」に主体的に参画する意識や態度」を「個人の尊厳」の不可欠の条件としている点はいただけない。「個人の尊厳」は「「公共」に主体的に参画」しようがしまいが、資格や条件とは無関係に認められるのでなければ、尊厳もクソもない。
公共空間とは誰でも出入り自由の場所だろう。それならメンバーとして尊重されるために資格や条件が要求される集団はけっして公共的とはいえない。
与党案要綱を起案した人は、権利と義務を、サービスとその対価のように考えているんだろうなあ。それなら国家は会員制クラブと変わりないものになってしまう。