シニカルな参加

実を言うと右だの左だのという話がよくわからない。私が学生のころはまだマルクス主義にも少しは存在感が残っていて、資本主義社会に対する批判者としての左派のマークでありえていた。
で、私はと言えば、マルクス主義者ではなかったので、その意味での左派ではなかった。
ただ、当時の中曽根内閣のタカ派路線には批判的だったので、ハト派であるという自覚はあった。しかし、デモに行ったこともなければ署名をしたこともない。学生運動集団主義的雰囲気が大嫌いだった。
社会人になって、ふとしたことから環境保護運動反戦運動にふれる機会があった(誘われて集会に出た)。職場のつきあいで行ったようなもので、「参加」したというほどでもない。独善的な雰囲気になじめず、たいていそれっきりになった。労組にも加盟したことがない。
たぶん、私は社会運動の雰囲気になじめないタイプなのだ。やりたい人がやればいい、と思う。
今日行って来た教育基本法改悪反対運動にしてもそうだ。似たような話が繰り返される関係者の挨拶、意味のない激励の言葉、かっこわるいシュプレヒコール
貴重な時間を割いて多くの人々が国会前に集まっても、それでなにかがすぐに変わるわけではない。それどころか、どん底にある左派政党の党勢挽回に利用されているのだ、とも思う。
ただ、それでも教育基本法改悪や共謀罪制定に反対の意思表示をするために疲れた足を運ぶのは、私が大好きなシニシズム(現代風の意味ではなく、古代ギリシア的な意味で)を維持するためには、思想・言論・表現の自由が確保されていなければならないからだ。
考えてもみられよ、言論統制下にあってシニシズムニヒリズムに居直るのは、単なる服従者でしかない。アレクサンドロス大王に向かって「そこを退け、昼寝の邪魔だ」と言い放ったディオゲネスの精神は服従者のそれであったか。
運動の主催者は近いうちにまた集会を企画するそうだ。いくら大集会を催したところで、内向きの連帯を確認するだけではどうにもなりはしないだろう、とは思いながらも、「昼寝の邪魔だ」と言うために私はまた出かけるだろう。