会社なら辞めることもできるが

昨日、fmnakaさんの「愛国心ってLove Moreよりも前にKnow Deeplyだよね。。」と題された記事を読んで考えることがあった。
http://d.hatena.ne.jp/fmnaka/20060428/1146243437
この記事のなかでfmnakaさんは一昨日の反対集会についてのニュースを引用している。

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1896981/detail
呼びかけ人の東京大学小森陽一教授は「教育基本法の改悪などだれも求めていない。今の教育を変えていくためには、教育基本法の条項を一つ一つ実現していくことだ」と強調。さらに主張を五七五調にし、「愛国心 欲しがってのは何者か お国のために 人殺すやつ」「何もかも 態度で示せと脅かす場 そんな学校 まっぴらごめん」などと訴えた。

私は小森氏がこの発言をした場(衆議院第2議員会館前)に居合わせたが、確かにこのようなことを言っていた。
これを聞いたとき、あちゃーまた言ってるよ、と腹の中で舌打ちをした。小森氏のこの発言は、現行法を理想のものとしてとらえる立場からのものである。
私だって与党案に比べれば、いや比べようもないほど現行法の方がマシだとは思っているが、現行法にも「国民」に限定されていることなどの問題点があるのに、全肯定しちゃイカンだろう、あくまでよりマシという視点から言えないものかなあ、と思った。
それから七五調のスローガンも、小森氏はこれで多くの人に伝えてなどと言っていたが、fmnakaさんが「それにしても、穏やかじゃないなぁ。上記の改正内容が、いかにしたら、国のために人を殺す奴の育成につながるのか、いまいちようわからん。。。どうも納得いかない。」と言うように、その意図はまんまと伝わっていない。
私は、言い方論にあまり拘泥することは好まないが、現に愛国心=戦争という物言いに飛躍を感じる人がいる以上、もう少し考えてもいいように思われる。
もっとも、fmnakaさんはご自身でその議論を組み立てなおしておられる。

例えばさ、これが国じゃなくて、会社とか学校とかだったらどうなるか。まず、ありがちなベンチャー企業の構図が浮かんだ。経営者が、社員に夢をたくさん吹き込んでさ、それで希望に燃えた社員たちが企業目標のために激務でもひたすら頑張る!みたいな。ここでは、経営者が、"愛社精神"なるものを植え込んで、企業の目標を達成させようとしている。
ならば、愛国心ってものを植えつけることで、国家の目標を達成させようとしている、と考えてみよう。その国家の目標が、「人を殺す」ことだったら、まぁ反対派の論拠も通る可能性もあるかもなぁ。まだまだ穴は山積みだけど。。

確かに「反対派」の言っていることは大体そういうことで、fmnakaさんの言う「穴」は、在日米軍の改編や共謀罪自民党改憲案の「国民の責務」が埋めてくれるはずだが、話が長くなるので端折る。
与党案の想定している愛国心教育には戦争に行かせることもできるようにすることが含まれてはいるとは思うが、直接には国のために犠牲なる覚悟を持てるようにする、ということであって、国家が国民に求める犠牲は兵役だけではないし、この与党案が可決された暁に現実に行われるだろうことは、それよりももう少し手前のことだろう。
例えば愛国心教育は、日本社会で国策に対する異論が生じるのを予防したり、異論を唱える者を排除することを正当化したりするための施策を行う法的根拠として考えられたものだろう。ここまでならfmnakaさんの初めに想定した「"愛社精神"」のケースから見ても「穴」はないはずだ。
問題は、会社なら経営方針に反対なら辞めることもできる(何度したっけ)が、国家の場合は国家目標が肌に合わないからといって、金もないし語学もできない私のような人間にとって、ほかに行き場がないということだ。中央政府の決める国家目標は、日本の各地域の歴史や風土や文化とは関係なく決まる。だから郷土愛と国への愛が対立することもありえる。国家はイヤなら出ていけ、とは言ってはならない。国家と企業をはじめとするそれ以外の集団の間には、この点で線引きがなされるべきだ。
私は国家が個人の思想や感情を法制化しなければできないような目標を持つべきではないと考えている。だって、それは、人生の目標を与える、ということだろう。そういうことは、各人が自分の生活のなかで考えていくべき事柄で、国家が、ハイこれ、と決めるようなものではない。
それはfmnakaさんの比喩を借りれば「尾崎豊に学校を愛せと強制する」ようなものだ。オレは学校を愛しているから窓ガラスを磨いたぜー、とか尾崎豊に歌わせたら(死んでるけど)、尾崎ファンはずっこけるのではないだろうか。これはやっぱり無理のある話なのだ。
だから国家は「"普通の国"」だろうが「文化大国」だろうが「人材輩出国家」だろうが、個人の人生の目的を制約するような国家目標を掲げるべきではないし、そのための教育をするべきではない。
同様の理由で、現行法の理念が与党案に比べて、いくらマシに見えても、それを絶対視するかのような表現は使うべきではないと思う。
今日もまとまりのないことを書いた。ご批判は甘受する。

追記

上のなんだかわかんない悪文で言おうとしたことを、きれいおっしゃっている方の文章を発見。
西瓜糖とサクランボhttp://passagevert.seesaa.net/article/17219983.html

あと、これは会員規約ではないので、これが決まったところで国民全員にそれが義務として課せられるというのが何よりの大問題。会員規約は気に入らなければ入会しなければすむのですが、教育基本法はすべての国民に等しく降りかかってくることです。それがこんなお馬鹿向けマニュアルみたいなのでいいんだろうか。「家庭教育」の条項なんかもそう。こういうのがいちいち書かれていることじたい、いかにも常識のない国向けの法律って感じで、見てて恥ずかしい。法案作ってる人は恥ずかしくなかったんだろうか。

要するにそういうことです。