高田馬場・早稲田松竹にて

イスがゆったりしていて楽に鑑賞できた。場内は一人おきくらいに座っているほどよい混み具合。

ヨコハマメリー

ああ、やっぱりあの人だ、と思った。
映画を見ながら、彼女の姿を見た日のことをようやく思い出した。
1988年2月、紆余曲折あって、同期より幾年か遅く大学を卒業した私は、先輩が企画してくれた卒業コンパに出席するために横浜に行ったのだった。横浜のどこへ行ったのだか長いこと思い出せなかったのだが、映画を見ているうちに「会場は中華料理屋だけど中華街で有名な石川町ではなく伊勢佐木町だからね」という先輩の言葉が耳によみがえってきて、ああ、やっぱりそうだったのか、と腑に落ちた。
横浜に不案内な私は、かなり早めに到着し、駅周辺の繁華街をぶらぶら散策していた。その折りに、白ずくめの異形の老婦人に出くわしたのだった。
その時は「メリーさん」伝説などつゆ知らず、ずいぶんと変わったお婆さんがいるなあと思っただけだった。
それから6,7年経って、横浜の「白いメリーさん」という都市伝説を知った。その主人公に酷似した人を見かけた記憶はかすかにあったものの、いつ、どこで、どういう事情で自分がそこにいたのかということも忘れかけていた。
その上、都市伝説で語られるメリーさんはほとんど妖怪化したものだったので、自分のおぼろげな記憶の方が都市伝説から回顧的に作られたイメージではないかと疑わしく思うほどだった。
私にとっては、幻と現実の境界線上にあるような「メリーさん」、その彼女にかかわった人々の証言を中心に、このドキュメンタリー映画は進行する。なかでもメリーさんと親交のあった老シャンソン歌手はもう一人の主人公であり、この映画は彼のメモリアルでもある。
画面に登場する人々は、口々に「メリーさん」とその時代、横浜から「メリーさん」が姿を消すとともに終わってしまったかに思える戦後をいささかの懐旧の情とともに語る。複数の語りのなかで輪郭のはっきりしない像を結びかけてはまたほぐれていく「メリーさん」がこの映画の虚焦点だとすれば、末期ガンと闘いながら歌い続ける老シャンソン歌手は、不在のヒロインの代補のような役回りにある(と、昔流行った言い回しで言ってみる)。
敗戦後の混乱期を娼婦として生き抜いた女性たち、高度経済成長とともに変わっていく町のかたち、年老いたメリーさんを支えた伊勢佐木町の人たちなどなどの姿と、環境が変われど白ずくめの姿で横浜を闊歩したメリーさんが交互に語られ、映画は終盤にさしかかっていく。
ただ一度、すれ違いざまに見かけただけとはいえ、ご本人に会った者としては、伝説の人物の正体だの、失踪の真相だのが無惨なかたちで提示されるよりは、謎は謎のままにしておいてくれた方がいいかな、と不安にも感じながら観ていたが、ラストシーンには驚かされ、そして、ちょっと涙ぐんだ。
仕事を早めに切り上げて、久しぶりに映画館に足を運んだ甲斐があった。

The sun

歴史物と言うよりは、敗戦時の昭和天皇のエピソードに想を得た寓話という印象。
尾形イッセイ、佐野史郎桃井かおりの怪演は楽しめた(桃井の目が怖い)。
面白かったのは、エンペラーがアルバムを眺める場面で、皇后の若いときの写真が出てくる。白いふわっとしたドレスにやはり白いつば広の帽子をかぶっている。「ヨコハマメリー」では、メリーさんの往時の娼婦仲間が、彼女の当時のあだ名は「皇后陛下」だったと語っていた。気位が高いからということだったが、このスタイルが決め手だったんじゃないかと思った。
2本立ての取り合わせの妙である。

追記・メリーさん伝説

実在のメリーさんは当然生身の人間であり、老ホームレスであったわけですが、本名も本当の年齢も知らない人が多く、そのため噂話の格好のネタになりました。「皇族の御落胤」、「実は男」、「戦前からいる」、「百歳を過ぎている」、「血を吸う」、「何人も分身がいる」、「本当は大富豪で豪邸に住んでいる」など。中島らもの小説「白いメリーさん」はその都市伝説に取材したものです。
いくつもあったメリーさんの噂のうち、よく知られておりまたある程度実際に近いだろうと思われるのは、次のようなものです。
「メリーさんはかつて米進駐軍相手の娼婦でしたが、恋仲になった軍人が日本を離れるとき、『いつか必ず君を迎えに来る』と言った言葉を信じて、別れたときと同じ白いドレスを着て横浜港から近いこの町に立ち続けているのです。朝鮮戦争の頃だと言います。」
朝鮮戦争ベトナム戦争に変えてあるバージョンもあります。
心変わりしたか戦死したかして決して帰っては来ないだろうかつての恋人を何十年も待ち続ける老女、この悲しい話は事情を知らない人から化け物扱いされていたメリーさんのために誰かが考え出したのでしょうか、それともメリーさん自身が何かの弾みに誰かに語ったのでしょうか。それは私にはわかりません。