自由民権の限界について

色川大吉自由民権 (岩波新書 黄版 152)』を読んで、いささかネガティブな気分になっている。
この本を書架から引っ張り出したのは、正月に読みかけた牧原憲夫『民権と憲法―シリーズ日本近現代史〈2〉 (岩波新書)』に「問題点についての目配りも周到」「「古典」には生命力がある」「色川『自由民権』以外に手頃な民権通史がない」とあったためで、それならまずは色川『自由民権』に目を通そう、と思ったわけ。
学生時代に一度読んでいたようで、ところどころ読み覚えのある文章があった。当時、この本にどんな感想を持ったのか、今となってはわからないが、畑違いの読書にもかかわらず処分しないで蔵していたところをみると、おそらくは私の生まれ育った多摩地域を舞台にして活躍する民権家たちを描いたこの本に好感を持って読んだのだろう。
ただ、今回は自由民権運動をあくまでも理念を実現できなかった運動として、その限界に目を向けようとの目論見があったので、自然と気になるところも変わってくる。

民権派の分裂

色川氏は、自由民権運動が生み出した政党が、結果として自由党と改進党に分かれ、運動が分断されたことを挙げる。

一八八〇年代という時点で、組織構想の違う自由党と改進党とが別々に党を作ったということはやむを得なかったとしても、共通の敵のまえで互いに「偽党」として攻撃しあう必然性はまったくなかった。自由民権運動がなぜ早期に敗北したか、その政治的な原因の一つがここにあったことは否定できないと私は考える。(p73)

活動家の意識

色川氏は「当時流行した「よしやぶし」の一節を引いてから次のようにいう。

民権には私権と公権とがある。私権は市民的自由を内容とし、個人の基本的人権にもとづく。公権は政治的自由を内容とし、政治的権利にかかわる。明治の自由民権家はこの後者にかたより前者を軽視した。その気持ちがこの歌によくあらわれているというのである。
民権を「個人」の人権の基礎の上に原理的に捉えることが弱く、「人民」の公権として集団的、実在的に捉えていたことはたしかである。そこには個人としての私権は、集団としての公権の獲得のためには犠牲にされても仕方がないという既成観念があった。つまりよくいわれる「志士仁人は身を殺して仁を為す」という志士仁人型の意識である。多くの自由民権家はこのかたちを美しいものと感じ、この既成観念を克服することを怠った。(p127-128)
家の内においては家族の人権を認めぬ専制的な家父長であり、外に向かってはわが身も家庭も犠牲にして顧みないという志士的な革命家像からは、私権の観念の育ちようがないからである。(p129-130)

このあと色川氏は「私権は低く公権は高いとか、女権は低く男権は高い、などという価値観」、既成観念の克服を怠らなかった人物のいたことも挙げながら、「だが、一般的な多くの例は批判されるように粗暴や偏向や差別のゆがみを持っていたのである」と付け加えている。

脱亜入欧

上記に関連して、色川氏は「脱亜」論的な考え方が「民権運動の躓きの石となった」ことも挙げる。

最近では多くの人が認めている、自由民権家が克服できなかった内部的弱点の第一は、内にあっては被差別部落や沖縄、アイヌに対する蔑視、外に向かっては朝鮮、台湾などの人民に対する差別や蔑視であろう。(p224)

人権理解の不徹底

こうして多くの民権家が「「脱亜入欧」(欧米帝国主義の仲間入り)の道を走り、わが手で墓穴を掘る結果をまねいた」のだが、色川氏はこれを民権家の人権理解の不徹底として次のように言う。

自由民権派の弱点は国権と民権との関係を深く掘りさげ、普遍的、原理的な確信にまで到れなかったという所にある。「防衛」という名の権力の発動の前には、人権の抑制もやむを得ないというような主張に簡単に同調してしまうというのは、人権が何ものによっても侵すことのできない基本的な権利として捉えられていないからであり、また、それが、性別や身分や階層や民族の違いによって差別されてはならない普遍的な権理であることへの信念が欠けているからである。(p230)

歴史観の問題

ところで、私がユーウツな気分になっているのは、上記のような明治の自由民権運動の限界のためではない。それらはいずれも史料に裏付けられたもっともなことだと思うし、将来の日本の民主主義のために大事な提言なのだと思う。
私が愕然としたのは、例えば次のような文章である。色川氏は「豪農主導の在地型の民権結社を検討して」次のように言う。

長い封建支配によってひきさかれ、抑圧され、疎外されてきた人民が人間としての全体性を回復したいと熱望してきたことがわかる。(p.49)

自由民権運動の担い手(この場合は豪農)が、人間としての全体性を回復したいと熱望してきた人民、と表現されていることに違和感を憶える。これは20世紀になってからさかんに論じられた自己疎外論の言葉だと思うからである。
いったい、明治のはじめの頃の「人民」が自分たちを「疎外されてきた人民」であり、「人間としての全体性を回復したいと熱望して」いる者として自覚していただろうか。もちろん、中江兆民や北村透谷なら、ルソーやカントやミルを読み込んで、先駆的にこうした発想を持ち得たかもしれない。その可能性は否定しないが、その数はごく少数だろう。「人間としての全体性を回復」という表現は、兆民の言う「回復的の民権」を念頭においてのことだろうとは思うが、それにしても「回復的の民権」と「人間としての全体性を回復」することとは同じことだろうか。
色川氏は次のようにも言う。

自由民権期に続出した叙事詩的なかずかずの英雄物語は、すべて民衆の中の小さなヒーローたちのものであり、民権結社を背景にして創出されたものである。私はこれを民衆の精神革命であったといいたい。また文化革命であったとも思う。(p49-p50)

人間としての全体性を回復したいと熱望してきた人民による未完の文化革命、これが色川氏の、「自由民権運動」観である。
これは色川氏自身の現代の政治課題、あるいは歴史観を過去に投影したものではないのか、と思わざるを得ない。
それは先に引用した自由民権運動の敗北の一因を語る場面にもあらわれている。政党の分裂による運動の分断といい、活動家の独善的態度といい、アジアとの連帯といい、この本が書かれた1981年当時の日本の政治状況のなかで、運動としての戦後民主主義を回顧するのであればまことにもっともな言葉がここに書かれている。
しかし、2006年現在の私としては、こうした氏の歴史観をそのまま継承するのはためらわれる。
だから、色川史学の敬服すべき業績はそれとして、「疎外されてきた人民」が「人間としての全体性を回復したいと熱望して」為した未完の「文化革命」として自由民権運動をイメージしないようにしなければならない。
さて、このように読んでみると、自由民権運動の限界と、そこから導き出すべき教訓は、別様のものであるかもしれないと思われてくる。
もちろん、まったく違うということではない。ただ、色川史学の前提とする歴史観をそのまま継承できない以上、同じ事象から教訓をくみ出すにせよ、それはなにがしかは異なるニュアンスをもってくるだろうと予想されるのだが、呆け中年の頭はテンポよく回らないのでまた少し考えてからにしよう。