天網恢々疎にして洩らさず

kurahitoさんが『老子』を引いている。http://d.hatena.ne.jp/kurahito/20070926/p1
kurahitoさんの記事の意図するところを汲めるかどうか心許ないが、久しぶりに『老子』を読んでみる。

任爲第七十三

あえてするに勇なればすなわち殺(さつ)、あえてせざるに勇なればすなわち活(かつ)。この両者はあるいは利、あるいは害。天の悪(にくむ)むところ、たれかその故を知らん。ここをもって聖人すらなおこれを難(かた)しとす。天の道は争わずして善く勝ち、言わずして善く応ぜしめ、召さずしておのずから来(まね)き、?然(せんぜん)として善く謀(はか)る。天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疏(そ)にして失わず。

「天網恢々疎にして漏らさず」ということわざの出典である。もとは引いたように「天網恢恢、疏にして失わず」である。ふつう「天網恢々疎にして漏らさず」は、天罰覿面、または、悪は必ず罰せられる、というような意味で用いられる。
しかしながら、この章句全体を読むと、勇敢な者は殺され、臆病な者が活きる、とある。ふつうの意味での善悪とは違う。
だから「天の悪むところ、たれかその故を知らん」と言う。天の意志は人間には量りがたい。「天網」の働きの基準も、人間の好悪・善悪の判断によるのではない、それは聖人ですらわからないのだ。
そういうことが書かれている。
ところで、kurahitoさんがこれに続く章句を引いているのは、いかにも道をわきまえた人のやることである。

制惑第七十四

民、死を畏(おそ)れざれば、いかんぞ死をもってこれを懼(おそ)れしめん。もし民をして常に死を畏(おそ)れしめて、而うして奇(き)をなす者は、われ執(とら)えてこれを殺すを得るも、たれかあえてせん。常に司殺者(しさつしゃ)ありて殺す。それ司殺者に代わりて殺す、これを大匠(だいしょう)に代わりて斲(き)ると謂う。それ大匠(だいしょう)に代わりて斲(き)る者は、その手を傷つけざることあるは希(まれ)なり。

〈私訳〉民が死を恐れなければ、どうして死刑をもって民を恐れさせることができよう。仮に民に死を恐れさせることができたとして、そして法を侵した者を捕らえて処刑できたとしても、誰がそれをするのか。死刑とは、殺を司る者があって死なせるのだ。司殺者に代わって殺すということは、(素人が)名匠に代わって木を削るようなもので、そんなことをすれば自らの手を傷つけることになるだろう。
司殺者とは何を指すのかによって解釈が変わる
天意と見れば、他人の生死を決するなど人には過ぎたことである、「天網恢恢、疏にして失わず」なのだから天に任せよ、とも読める。あるいは、天にあらざる者が天に代わって悪を斬る以上、自らの手が傷くことを覚悟して行え、とも読める。
司殺者を国家の執行者と見れば、私刑(リンチ)の禁止とも読める。
いずれにしても含蓄のある話である。
ところで、ニュースによれば、鳩山邦夫法務大臣は死刑を自動的に行いたいらしい。
http://bogusne.ws/article/57228967.html
まさに司殺者である。こうしておけば、誰も「その手を傷つけ」ることはなくなるということか。
しかし、どこまで本気かは知らないが、もし全自動死刑執行ロボが出来れば、今度は、そのロボの「悪むところ、たれかその故を知らん」ということにもなるだろう。
いやはや、「聖人すらなおこれを難しとす」と言われるわけだ。