「責任」という漢語の来歴

「責任」という漢語の来歴が気になって、カント先生に八つ当たりしていたが、私のようなド素人が手近にある本を読み返した程度ではどうにもなるものではなさそうだ。
幸い、今朝、図書館に行く時間を確保できた。昨日、妻が図書館に返し忘れた本があることが発覚し、腹の中でしめしめと喜びながら、何喰わぬ顔で「僕が返しといてあげよう」と申し出たのである。
図書館に突入するや、参考室でめぼしい辞書・事典をバタバタと開いてはながめる。
以下、自分のためのメモ。

中国での用例

まず、『荘子』天道編の「无為也、則任事者責矣」(無為なれば則ち事に任ずる者、責めあり。)が出典だとする説について。
うっかりしてどの辞書だか忘れたが、ある辞典によると、『荘子』そのものに由来するというより、現在伝えられている『荘子』を編集した三世紀頃の学者・郭象の注釈に由来するらしい。ただし、これまたうっかり書き写してこなかったが、郭象注として挙げられている文例でも「責」の字と「任」の字は離れており、「責任」という熟語にはなっていない。
大修館『大漢和辞典』には「引き受けてなすべき任務。当然なすべきつとめ。せめ。」とあり、『六部成語』に「本任応管応弁一切分、所応為之事」(原文は旧字・レ点省略)とあると記すが、これは『六部成語』という辞典にそう載っていたということであって、語源ということではないようだ。『六部成語』とは清代の公用語辞典だそうで、漢学に通じた方ならよくご存知なのだろうが、呆け中年にはわからない。例文の読みも間違えると恥ずかしいので読まずにおく。
ともかく、成語辞典に「責任」という語の説明が載っていたということは、語源は確定できないにしても、「責任」という語はもともと中国にあったということがわかる。

日本での用例

小学館日本国語大辞典』には「責めを負ってなさなければならない任務。引き受けてしなければならない義務」という意味での出典例として『懶室漫稿』(1413頃)、『信長記』(1622)、『花柳春話』(1878-79)、明治民法(1896)が挙げられていた。
『懶室漫稿』とはなんだろうと思っていたら、花園大学のホームページにあった。
http://iriz.hanazono.ac.jp/k_room/k_room03f_3h.html

大覺派。仲方圓伊(1354〜1413)
南嶺子越に嗣ぐ。法諱は初め曇伊、道号は初めは三山、後に法諱を圓伊と改め、道号を仲方に改めた。別に懶室・懶囝子と号する。長州の人。正平九年(1354)生。

播磨の法雲寺・山城廣覺寺・建仁寺・南禪寺に住す。應永二〇年(1413)八月十五日示寂。四六文作法について『伊仲芳四六之法』という著書がある。
語録に『仲方和尚語録』、詩文集『懶室漫稿』がある。『六部成語』は、その内巻5〜巻7しか残されていない。

『懶室漫稿』は、東京大学史料編纂所に、天龍寺蔵本写(巻5〜巻7、仲方和尚語録附録と付箋す)がある。

なお、上村觀光「雲壑猿吟解題」では「仲芳圓伊」と作るが、玉村竹二『五山禪僧傳記』により「仲方圓伊」とした。

著者の仲方圓伊は、室町時代の初めの頃の臨済僧で、漢文に達者だったようだ。「詩文集」というのは、もちろん漢詩・漢文集ということである。
信長記』は江戸時代の初め頃、小瀬甫庵が『信長公記』を脚色した織田信長の伝記読み物。
『花柳春話』は、明治の初め頃、丹羽純一郎がリットン「Ernest Maltraverse」という小説を翻訳したもの。
なお、『英和外交商業字彙』(1900)という明治時代の辞書に、Liabilityの訳語として「責任、負担、負債」が挙げられていることもわかった。
どうやら『荘子』の郭象注に端を発し、『六部成語』に記されている以上、どんなに遅くとも明代には「責任」という熟語は行政用語として成立していた。
その証拠が、仲方和尚の『懶室漫稿』である。日本に1354〜1413の間に伝わっている以上、中国では明朝の初めの頃には「責任」という語が既に使われていたのは確実だろうと思う。

当面の結論

「責任」という漢語は、中国では遅くとも明の頃には成立していて、日本での用例は室町時代から確認できた。意味は、任務とか義務に近い意味で使われており、明治の頃にはLiabilityの訳語としても挙げられていた。
Liabilityは、現在は「義務」と訳すことの方が多いように思う。「責任、負担、負債」がLiabilityの訳語として挙げられたのは、Liabilityや、現在では「責任」と訳すRersponsibilityの訳語として何が適切か、明治の段階では定まっておらず、イメージの近い既成漢語をあれこれあげつらっていたということだろう。
つまり、「責任」という漢語は既にあったけれども、Rersponsibilityの訳語として定着したのは、早くとも1900年以降ということになる。
なお、現代語の「責任」はRersponsibilityなどのヨーロッパ語の翻訳語であり、その語源については、『岩波・哲学思想事典』に次のようにあった(池上哲司執筆)。

責任とはなにかに応答する(respondere)ことであり、ローマ時代は法廷で自らの行為を弁明するといった事柄を意味していた。ここにキリスト教の最高審判者の神という思想が加わることで、責任とは神の前での責任という色合いが濃くなった。しかし、近世以降人間の主体性が強調され、ついには「神の死」が宣告された現代においては、責任概念の内実は当然変わらざるをえない。

ついでに弘文堂『現代倫理学事典』も引いてみた(宇佐美公生執筆)。

責任(rersponsibility)という語は、もともとローマ時代の法廷における弁明・応答として用いられたresponsusに由来し、他者の「問いかけ」に「応えることができる」こと、つまり間柄を生きる人間の「応答可能性」を意味する。そしてこちらの方が、客観的だが文脈相関的な「配慮義務」よりも根本的であると言える。

弘文堂の事典には法学的アプローチの説明もあって、これには責任概念が多義的である理由の第一として「日本が近代法を輸入する際に、主として継受元となったドイツでは複数の語で言い表されていた概念を、日本では「責任」の一語に担わせたことにある」と指摘している。
RersponsibilityだのLiabilityだのを担わせるのは、「責任」という漢語には、任が重すぎたということか。
さて、結論としては当初の見通しと変わらない上、ものすごくアバウトな話で恐縮だが、私の当面の関心にはこれで十分なので、責任探しはこの辺で打ちきる。
ちなみに、念のため、現代の中国語に「責任」という語はあるのかどうか、辞書を引いてみたら、やはりあった。「せきにん」ではなくて「ゼーレン」と読むのだそうだ(アクセントはわからないけれど、キルケゴールファーストネームと同じなのが面白かった)。