禅ZEN

曹洞宗の祖、道元の伝記映画。
知り合いの知り合いが製作に関わっていることから、付き合いで、新宿の映画館に足を運んだ。
以下、悪口。
各エピソードが説明不足で、まるで大河ドラマの総集編を見ているよう。よい役者を使っているのに、各場面の演出が大雑把で感動にはほど遠い。
道元が如浄の元で修行し大悟する場面にCGを使っていたが、それがあたかも神秘体験をしたかのようなイメージだったのには驚いた。禅の悟りと神秘体験は違うものだろうに。
また、病気の子供を助けてほしいと訪れた女性(内田有紀が好演)に対して、道元が身内から死者を出したことのない家を探して豆をもらってきなさいと諭すエピソードが挿入されていた。これは今ちょっと出典が思い出せないのだけれども、確か、子供を亡くして嘆き悲しむ母親に、釈尊が無常を教えるために説いたという伝説が元になっているのだろう。それはそれでよいのだが、元の釈尊のエピソードでは子供は既に死んでいる。映画の道元は、まだ息のある子供を抱いた母親に有りもしない豆を探しに行かせている。これは大きな違いである。
子供が生きていた場合、釈尊ならば毒矢の喩えのように、まずは子供を救う実践に専念するだろう。ところが映画では、子供はまだ生きているのに、道元が豆を探しに行かせたため、その途中で子供が息を引き取ったかのように受け取れた。
もちろん伝記映画とはいえ、史実に忠実であるばかりが能ではない。ましてや道元という、一生の大半を座禅をして過ごした人物の伝記である。そのまま撮ったら、ひたすら座っている映像が延々と続くことになろう。テーマや時代背景、登場人物の内面などを表現する上で効果的であるならば、脚色もなされてしかるべきだと思う。
しかし、これはちょっと酷いのではないか。
私にはこの映画の描く道元とは、神秘体験に舞い上がって天狗になり、子供を見殺しにして法を説いたつもりのバカ男、という印象が強く残った。こんな中途半端なエピソードなら、無理にでっち上げて挿入する必要はない。
私は原則として、他人様が汗水たらして作りあげた作品の悪口は言わずにすませたいと思っているし、ましてやこの映画には間接的とはいえ知り合いが関わっているので多少は遠慮したい気持ちもあるが、今回は我慢がならなかった。
曹洞宗駒沢大学も協力しているそうだが、宗祖の事績にあらぬ誤解を生じさせかねないような場面によくもOKを出したものだ。
たいへんガッカリして映画館を出た。

追記

映画「禅」で、道元のものとして描かれていた逸話は、「キサー・ゴータミーと芥子の実の話」と言うらしい。http://www.kyosei.toyo.ac.jp/web/index.php?DataBase%2FBookIndex%2F99
そう言えば、この話を最初に聞いたのは菅沼先生の講義でだったかもしれない。
なお、http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/kn.htmlによれば、この話は次のよう。

子の亡き骸を抱いて「薬を薬を」と泣きながらさまよい歩いたので、「いまだかつて死人を出したことのない家から、ケシの実をもらってきなさい」と諭され、そのような家のないことを知って正気に立ち戻ったキサー・ゴータミーなどの詩が納められています。

やはり子どもは既に死んでいるのだった。死んだ子を生き返らせようとするのは執着であり、それを釈尊は諭されたのだろう。死にかけている子どもを救おうとする気持ちを迷いとは言わないだろう。
もっとも岩波文庫『尼僧の告白』で、キサー・ゴータミーのものと伝えられる偈で語られているのは、もう少しシンプルな話だったように記憶しているが、今、手元に本がないので後で確かめたい。