理論化しつくせない領域

東京は今日も猛暑。今日はようやく手にした夏休みであるのに、あまりの暑さに出歩く気にもならずネットにつないだら、Web評論誌「コーラ」11号が発行されたという報に接し夏バテに拍車がかかった。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20100815/p1
このWeb評論誌「コーラ」、結構面白いのだが、問題は私が再三中止を要請しているのに〈倫理の現在形〉という連載を止めようとしないことである。
今回が10回目だと言うから、今から足かけ三年前ということになろうか。
閑古鳥が鳴いていたライターの看板を下ろそうかと迷っていたころ、Web評論誌「コーラ」の編集長・黒猫房主さまから、埋草の書評でも書いてくれないかと言われるがままに書きなぐった駄文が、どういうわけだかリレー連載の第一回になってしまい、それだけならまだしも、私の後に執筆された方々はどなたもキラキラと眩いほどに才気あふれる若手の俊英ばかり。
これはどう考えても、埋草にもならない駄文を寄せた私への、黒猫編集長の嫌がらせとしか思えない。
さて、今回黒猫編集長が放った刺客は、上間愛氏、フェミの総本山、上野門下の俊英のご様子。
上間愛「フェミニズムに対する違和感──「学問としてのフェミニズム」に(震えながらも)物申す」
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-10.html
私はかつてこのブログ上でフェミ嫌いを公言したことがある。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090517/1242528164
今回、Web評論誌「コーラ」が、気鋭のフェミニズム研究者を登場させたのは、フェミ嫌いを公言した私に対する嫌味でなくてなんだろう。
しかし、上手の手からも水が漏れると言うがまさにその通りのことが起きたのである。
上間愛氏のご論文「フェミニズムに対する違和感──「学問としてのフェミニズム」に(震えながらも)物申す」を読んで私は狂喜した。

彼ら自身が生活していく過程で感じた「違和感」を言語化し、世の中に対して異議申し立てした途端に、「それは思い込みにすぎない」「単なるルサンチマン」「被害くらべにすぎない」などという反応で、彼らの声は無視されてきた歴史

まさにその通り!と膝を打った。ポンと打った、ポンポンと打った、ポンポンポポポンと打ちまくった。ポンと打ちゃニャンと鳴く。
これまで何度も黒猫編集長の広坂パッシングに対して抗議の声をあげてきたが、「それは思い込みにすぎない」「単なるルサンチマン」「被害くらべにすぎない」などという反応で、私の声は無視されてきたのだ!
上間氏が言っているのは、まさに私のことなのである。この指摘によって、完全犯罪のようにも思えた黒猫編集長の陰謀もついにほころびが見えてきた。
フェミ嫌いの私にフェミニストを差し向けようというところまではよいアイデアだ、敵ながら天晴れといっていい。しかし、黒猫編集長は今回は詰めが甘かった。上間氏の現実を直視しようという姿勢が、かくまで真摯なものだったとは計算違いだったのだろう。
結果として、上間氏のご高論は、真理を照らし出し、黒猫編集長の陰謀も明るみに出したのである。
もっともこれは前置きで言われていることにすぎず、上間氏は「人種、民族、セクシュアリティの点においてマイノリティに属する人々」の声が無視されてきた歴史を踏まえたうえで、当事者の経験に立脚しているはずのフェミニズムが、アカデミズムの中で学問としての地位を確立するにつれて、当事者性を搾取するシステムになっているのではないかという違和感にもとづき分析と主張を述べられている。
本当ならリブとフェミニズムのはざまで生きてきた妻の感想でも記したいところだが、あいにく妻は出かけているので、呆け中年の感想だけを簡単に書きつけておく。
上間氏は、人文系の学問(ここでは社会学フェミニズム)における表象(代理・代表)の暴力性についての倫理的な違和感を表明したうえで、表象される当事者が表象する者の想定の枠内には収まりきらないことを指摘して、次のように述べている。

 しかし、「女性」自身にこのような、他者に取り込まれまいとするふてぶてしさと居直りのパワーが存在するからこそ、「フェミニズムに未だ理論化しつくせない領域が存在する」と、肯定的に捉えることができるのではないだろうか。「完全な理論など存在しない(だからフェミニズムに過大な要求をすべきでないし、フェミニズムがすべての説明責任を負うわけではない)」という言い方で、フェミニズムに対する違和感をなきものにすることなしに、「フェミニズムの理論化しつくせない領域が存在すること」を再評価したいと、私は思う。それが、「女性」自身による「女性」相互の肯定につながり、<ここにいる自分>からの出発点となり得る気がするからである。

最近、カントばかり読んでいるせいか、それはそうなんだろうな、と素直に思う。
脱線するが、私の外観は脂ぎった強欲親父で、カントよりもヘーゲルに似ている。生まれつきの骨相はいかんともしがたい。おかげで、フェミ系女子(男子も)からは男根的支配欲の権化のように忌み嫌われたが、抗議の声をあげても「それは思い込みにすぎない」「単なるルサンチマン」「被害くらべにすぎない」などという反応で、私の声は無視されてきたのだ!?
それはそれとして、かつて、私の学生時代に読んだ入門書の類には「理論化しつくせない領域が存在すること」は、カントの弱点のようなニュアンスで紹介されていた。いわく、カント認識論の図式では物自体が表象の外にとりこぼされてしまう云々といった具合に。
しかし上間氏は、弱点を弱点と見ずに「肯定的に捉える」、それを「<ここにいる自分>からの出発点となり得る」ものとして再評価するという。
大学を出てしばらく、民俗学に関心を持っていたが、そこでも類似のことはあった。神話と伝説、伝説と昔話、昔話と世間話、世間話と今ささやかれている噂、というように曖昧な境界線をたどっていくと、例えば、幽霊の祟りということも、民俗資料として客観的に扱うことのできないレベルというものが存在する。具体的にいえば、噂をたどっていったら、実際に自分が見たという人に行き当たった場合である。常識的に考えれば、幻覚か思い込みか嘘か、いずれにせよ虚構ということになるのだが、私が見たという人のお話をうかがうと、はたしてそのようにレッテルを貼るだけでよいものかと、世間話を調べている自分の立場の方がよほど怪しいものに思えてくる。
私の住んでいる団地は、かつて軍需工場のあったところに建っている。終戦間際、この武蔵野の片田舎にも米軍の爆撃が行なわれた。中島飛行機工場には大勢の女子学生が勤労動員で働いていた。彼女らの上に焼夷弾が降り注ぎ、焼け跡には焼死体が累々としていた。その遺体処理のために現場にいた人の話では、女子学生たちの遺体から小さな火の玉がポッポッと宙に浮き、それがやがて一つの大きな火の玉となって夜空に消えたのだと言う。武蔵野市立中央図書館にはこの話の原話を記した豆本が保管されているはずである。
この話を、幻覚か、特殊な自然現象か、作り話か、と分類したところで何になるのだろう、と思う。そうでしたか、と受けとめるほかにはない類の話である。そして、そういう話はごまんとある。
私たちが知の対象としうるのは、現実のごくごく限られた一側面でしかない。そして、上間氏の言うように、だからこそ、そこには肯定的な契機があるはずなのだろうと思う。
ずいぶん脱線して、すでに上間氏のご高論の本来の趣旨から思い切り離れてしまっている。これ以上の無駄口をたたくのは上間氏の優れた論考に対する要らざる誤解を生みかねないので、ここらへんで口をつぐもう(いや既に私の感想が誤解の始まりか?)。