恐怖!Web評論誌『コーラ』8号の怪

世間には二種類の人間がいる。嫌がらせのツボを知っている人間と、嫌がらせをしたくてもツボをはずす人間とである。
私などは断然後者であって、心の中には悪意が渦巻いており、はらわたは憎悪で煮えくりかえっているというのに、要を得た嫌がらせの一つもできずに泣き寝入りしてばかりで、我ながら情けないことこの上もない。
その点、黒猫房主様ときたら嫌がらせをするにもツボを心得ており、嫌がらせとはこうするものだというお手本のような手際で見事やってのけるのだから、実に見上げたものである。
なんのことかって? 言わずと知れたWeb評論誌『コーラ』の最新号が発刊されたのだ。
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html
油断していた。世間には夏休みというものがある。それならば私もせめて土日くらいは休んでもいいだろう、と、土曜は妻と奥多摩へ日帰りハイキングに行き、日曜は旧友と浅草に遊び、のんきにおしゃべりを楽しんでいた。そんな私の迂闊さを嘲笑うかのように(いや嗤っているのだ)、黒猫編集長はWeb評論誌『コーラ』の最新号を刊行したのだ。
もう8号になるのだそうである。嗚呼、これが7号だったらどんなによかったことか。
というのも、毎回最新号発刊の報を聞くたびに慚愧の念に駆られるのだが、実はこのWeb評論誌『コーラ』の巻頭を飾る「シリーズ〈倫理の現在形〉」の栄えあるべき第1回を、うっかり私の駄文で汚してしまった苦い思い出があるからである。他の方の寄稿さえなければ、あの号は永久欠番にしてほしいくらいのものだ。
ふだんはこの恥を忘れたふりをして暮らしているが、『コーラ』の最新号が出るたびに屈辱の記憶が時を隔てて、亡霊のように甦ってくるのである。それは私に取り憑いて離れようとしない。
その後、シリーズ〈倫理の現在形〉は私の駄文の後、気鋭の研究者たちや、永野とかいう隠然たる影響力を持つ奇怪な哲学者によって書きつがれ今に至っているわけだが、今回は、岡田有生氏による『倫理のふるさと──存在の暴力性と、共に存ることの基盤』である。
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-8.html
岡田有生? この人がどういう人かは知らない。だが、どうやらこれは偽名で、id:Arisanさんのことらしいという情報を秘かに入手した。Arisanさんといえば知らぬ人は知らぬだろうが知っている人は知っている在野の賢人である。
だから、世間の人はこういうかも知れない。清廉潔白、人格円満なArisan氏のことだから、今回に限っては黒猫房主様の嫌がらせに加担しているということはないのではないか、それはいくらなんでも広坂の被害妄想なのではないのか、と。
しかし、紳士淑女の皆さん、ぜひWeb評論誌『コーラ』を読んでみてほしい。そうすれば私の言っていることがあながち妄想ではないことがわかるだろう。
岡田有生氏の論考『倫理のふるさと──存在の暴力性と、共に存ることの基盤』は、7つの項目が立っているが、大きくは映画『沈黙を破る』を紹介しながら私たちが「そのなかに意識せずに身を置いてきた暴力の構造」を取り出し、問題を明らかにする前半と、シモーヌ・ヴェーユの不幸論によって考察を深める中盤、「倫理のふるさと」というイメージ豊かな言葉によって展望を示す結語とでなっている。
問題は、実に7項目中4項目を使って展開される中盤のシモーヌ・ヴェーユ論である。
一見すると真摯な問いかけと解釈によって読む人に感銘を与えるだろうこのシモーヌ・ヴェーユ論こそ、この論考が私への嫌がらせ、それも実に的を射た嫌がらせであることを如実に示しているのだ。
今回ばかりは明々白々たる証拠があるので、黒猫編集長も岡田氏も言い訳はできまい。
証拠というのは他でもない、この私のブログである。
このブログ、「恐妻家の献立表」を読んでいただければどなたにも一目瞭然のことと思うが、私はこの6月に専門家を招いてシモーヌ・ヴェーユの読書会を催した。そのお知らせをこのブログでもおこなった。そして、読書会の予習として、シモーヌ・ヴェーユの論考の一つを精読しようとしたのだが、シロウトの悲しさ、すぐに力尽きて挫折したのであった。そのわずか数回の読書日記もこのブログで公開してある。
つまり、もはや多言は要すまい。岡田氏が論考の中盤で見事なシモーヌ・ヴェーユ論を展開しているのは、ヴェーユの短いエッセイすらろくに読みこなせない私への当てつけにほかならないのである!
念のため、以下にその証拠となる記事のトラックバックURLを貼り付けておこう。こうすれば黒猫一味もグウの音も出まい。
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無い!
なんで?
あっ、読書会が終わったから用済みだと思って消してしまった?!
嗚呼っ!