あたりの箱・はずれの箱

少し前、日本ラブストーリー大賞の下読みをやった経験から、以下のような記事を書きました。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20101219/1292690224
「日本ラブストーリー大賞攻略法」と大げさに題してありますが、実態は、一次選考で読ませていただく作品の中に日本語の文章として未熟なものが多すぎるという愚痴がほとんどで、羊頭狗肉もここに極まれりといった代物なのでした。
それはともかく、一つ書き忘れていたことがあったので追記します。
下読みにとっての一次選考は、何十篇もの応募原稿を詰め込んだ段ボール箱が主催者から届くところから始まります。これに、あたりはずれのあることが二次選考会議の際に話題になったことがありました。
つまり、ある委員は「今年は面白い作品が多くて絞り込むのに苦しんだ」と言い、別の委員は「凡作・駄作の山でマシなものを拾うのに苦労した」と言うのです。初めは、各委員の文学観や受賞作品に求めるレベルの違いに由来するのかなと思っていたのですが、二次選考の会議で互いの小説観を知るにつれて、そうでもないことがわかってきました。
そして誰ともなく言われはじめたのが、あたりの箱・はずれの箱があるということです。よもや何か作為があるのではないかと、どういう基準で箱詰めしているのか事務局に尋ねたことがあります。答えは、応募作の到着順にせっせとコピーして箱詰めし、委員の名簿順に送っているとのこと。それが事実だろうことは、その後の経緯でわかりました。
下読みの側からすれば、あたりの箱にあたればうれしい悲鳴といったところですが、応募者にとっては有力なライバルと初戦でぶち当たってしまうわけですから不運です。逆に、はずれの箱にあたった担当者は日本文学の未来は暗いと嘆くわけですが、そこに比較的マシな作品があれば、これ幸いと二次選考に推薦することになります。これは応募者にとってはラッキーでしょう。
ついでに言うと、あたりの年、はずれの年というのもあります。私が二次選考までお手伝いした五年間のうち、ある年は明らかにあたりの年でした。二次選考会議で最終選考会議に推薦する五作品を絞り込むのですが、どれも捨て難く議論が紛糾して、すったもんだの末、この五作だったらどれが大賞に選ばれてもいいだろうと選考委員全員が納得した回がありました。
私どもからすれば豊作の年でしたが、ついてなかったのはその年の応募者です。
これはもうまったく運不運の問題であって、どうしようもないことですが、やむなく見送った作品の中に惜しいものも多々あったことは確かです。
その中に、いかに忘れっぽい私でも忘れがたい作品がありました。ある少女が恋の経験を経て大人になっていく数年間を一人称で描いたものです。書き出しはケータイ小説的な感じで文章もやや稚拙だったのが、ストーリーの進展とともに内容・表現ともに充実していく。初めは、書いているうちに書き慣れてきたのかなと思いましたが、クライマックスからラストにかけてはとても昨日今日書き始めた作家の筆致とは思えない円熟味です。やられた!と唸りましたね。作者は、主人公=語り手の成長にあわせて文体を変えて見せていたわけです。エピローグにはそれを暗示するオチもちゃんとありました。たいした技巧だと舌を巻きました。ただ、その年はあいにくとあたりの年で有力候補作が他にもたくさんあり、この作品は二次どまりになったのですが、その後、他の出版社から刊行されたという話を風の噂で聞きました。
捨てる神あれば拾う神もある、実力のある人はあきらめなければチャンスは巡ってくる、と、ありふれた気休めでこの話はおしまいです。