縊鬼

あいかわらず旧友の死を嘆き続けている。いまだに一人になると涙が止まらない。洗面所で鏡を見たら、泣き疲れた表情が顔に張り付いていた。
このあいだ、不用意に「縊鬼」という言葉を使った。私も短期間とはいえこのジャンルで生計を立てていたこともあるので、誤解を招くような表現に弁解を述べておきたい。
私は「縊鬼」という言葉の通常の意味を極端に拡張して使った。
ふつう、縊鬼とはああいうものではない。実吉達郎『中国妖怪人物事典』では次のように説明されている。

首をくくって死んだ者の鬼。中国の鬼は怨みのある男女に思いしらせるために出てくるのではなく、怨みがなくても自分が生きかわるために、その人に縊死をけしかける。

しかし、私の旧友は自殺したのではない。あくまでも病死である。ただ、おそらくは生き続けようとすることをやめた、その意味では覚悟の死だっただろうとは言える。覚悟の死というと大げさだな、面倒くさくなったんだろう、おい、違うか?
旧友の死の知らせを受けてから、しばしば眼前の光景が生き生きとした色合いを失い、ひどく殺風景に見えることがあるようになった。都会の喧騒がふっと遠くなる。たとえて言えば、モノクロの無声映画の中に迷い込んだような感覚、もちろん色も見えているし音も聞こえているのだが、それらに心が動かされない、意識が向かわない。心理学でナントカというらしいが忘れた。だが、怪談の世界ではおなじみの現象で、怪異の現れる兆候、あるいはこれ自体が怪異でもある。
先日、私にもこの兆候が現れ、続いて、あれが襲いかかった。あれ、というのは、軽い自殺衝動である。こうした主観的な情緒に重い軽いと形容するのも変だが、幸いにも(というのも変だが)私は亡くなった旧友にかつて大失恋をしたことがあり、類似の衝動はその時に経験ずみなので、それに縊鬼と名付けて退けた。しかも、それを妖怪と呼んだ。
「鬼」は漢文脈では、日本で言う妖怪の意味にもつかうが、第一義的には亡霊を指す。上に引いた事典でも「鬼」と書いて「ゆうれい」とフリガナを振ってある。日本の幽霊は生霊を含む場合があるので、私はこの場合「亡霊」と呼ぶ。
しかしながら、人を死へと誘う何かの出現という怪異の場合、現代日本の文脈では、その主体を亡霊ではなく妖怪とみなした方が適切だと私は考えている。その理由として、日本では、亡者が生まれ変わるために誰かを代わりに死なせる必要があるという縊鬼求代の観念が一般的ではないことが挙げられる。これを世界共通のルールとみなすのは誤りだ。
池田弥三郎が名著『日本の幽霊』の初めの方で、「『とんぼ』という料理屋の、そこのおかみにまつわる話」を披露している。「先立ってあの世に行った者が、この世の人を招きよせてつれて行く」そういう話である。なぜ連れて行きたがるのか、これは聞いてみないとわからないけれども、縊鬼求代のようなエコノミーな理由ではないように思う。
江戸後期の鈴木桃野の『反故のうらがき』に、ズバリ「縊鬼」と題された文章があって、これは四谷在住の御家人であった叔父から聞いたという、一種の落とし話である。そこでの縊鬼は、特定の場所に縄張りをもって、そこをたまたま通りがかった人にとり憑き、死へと誘う魔物として描かれている。これはまったく妖怪のふるまいである。
案ずるに、日本版縊鬼、あの世に招く者とは、そのふるまいを見る限り、「タクシー幽霊」がそうであるように、一般に亡霊のしわざと想定されているけれども、本質的には妖怪と考えた方が現実的であるような何かだと私は考えている。
そこで神楽坂で私に憑いたものを、狐狸妖怪の類が彼女を騙ってあらわれたのだとみなした。
言葉足らずのところもあるが、とりあえず、縊鬼を妖怪とみなしたのは私なりの考えがあってのことで、誤解にもとづくものではないことを述べた。
「あいかわらずつまらない屁理屈をこねるのが好きだな」と君は笑うのだろう。そうさ、そうでもしていないと持ちこたえられないんだよ。