私的な体験

オカルト系の話に拒否反応のある頭でっかちさんは読まないでください。
私的な体験を公開の場所に書き出すのは、書くことで自分の感情を整理するためです。それが今の私に必要だと確信するのでそうしています。
香山リカが共感疲労について語っている記事を読んだ。震災の被害に共感しすぎて抑うつ状態になる人もいるのだそうだ。
私にもその傾向があった。そこへもってきて親友の訃報である。
香山は共感疲労の特徴として「仕事が手につかない。やる気も、集中力もまったく出ない。涙が止まらなかった」という例を挙げており、それが全部当てはまる。幸い、まとまった仕事は先週のうちに片づけておいたので、今のところ業務に支障はきたしていないはずだ。
彼女が道ならぬ恋の相手だったとでもいうのであれば話は簡単だった。火遊びから手を引くよい機会である。
あいにくと三十年の歳月が私たちを親友にしてしまっていた。憂さ晴らしと称して芝居見物や食べ歩きに出かけ、家族にも言えない愚痴、というか、家族にこそ言えない愚痴をこぼしあい、互いの弱点を遠慮会釈なくどつきあうおしゃべりのおかげで息抜きどころか、問題解決のヒントをもらったこともある。
彼女にとってもそうであったと期待している。「お前と一緒にいると安心する」と、高校生のときに言われたのとまったく同じ言葉を口にしていたから、あながち自惚れでもないと思う。
少なくとも僕にとっては、かけがえのない大切な友人だった。
その人を失った。
かなりこたえている。というか、やばい。
緊急避難行為だと思って、後輩まで巻き添えにしてわめき散らし感情の発散をはかったのは我ながら素早い処置だと思っていたが、遅かった。すでに取り憑かれている。昨夜は危うく向こうへ連れて行かれるところだった。
仕事の打合せで、夜、神楽坂へ出かけた。用談を終えて、相手と別れ際、ふと彼女がこのあたりに大阪寿司の名店があると言っていたのを思い出した。尋ねてみると「この路地を入ってすぐ裏ですよ」と教えてくれた。
しまった、余計なことをした。
「じゃ、よろしく」と言って相手と別れたとたん、彼女とこの道を歩きながら、ついに肝心の店を探し出せなかった日のことがありありと浮かんで、気も狂わんばかりになった。
まだ人通りの多い繁華街にいるのに、音が消えた。来た、と感じた。
いや、狂っていたのだろう。タイミングよく、「ペコちゃん焼き買ってきて」という妻からのメールがなければ、何をしていたかわからない。
これは憑かれたな、とはっきりわかった。
もちろん、取り憑いているモノが彼女ではないことは知っている。彼女はこういう未練がましい考えをまったくもたない。
こういうときは、まず相手を誰何する。「お前は誰だ」。
正体はすぐに知れた。
漢籍に「縊鬼」などと言う名前で登場する小者だ。
人の死を悔やむ気持ち、恐れる気持ちに乗じて、冥界に引きずり込もうという死神の一種である。
あるいは、この世界に彼女が存在しないことへの絶望から、ここではないどこか、彼女が存在すると思念される世界へ行きたいという衝動なのだと言えば、狂ったとは思われずにすむかもしれない。
しかし、絶望に付ける薬は、哲学や心理学にはない。感情を屁理屈に翻訳するだけだ。
それに、彼女の死のイメージを僕ははっきりと知っている。喘息の発作による臨死体験の話を聞いたことがあるからだ。そこには三途の川もなければ、雲の上のお花畑もない、それはまったく透明な世界、空間という感覚すらもない完全な無、なのだそうだ。「そこで私は無くなる」、彼女は目を輝かせてそう言った。自己意識の抹消こそが彼女の解放のイメージだったのだから。
そこから「縊鬼」などという妖怪がわいて出てくるはずもない。
要するに、「縊鬼」とはこの私自身なのだ。
涙を見られたくなくて駆け込んだ毘沙門天の薄暗い境内でそう思い定めて、不二家によって帰った。運よくポコちゃん焼きもついてきた。
そして、明け方、夢を見た。
デパートのようなところで買い物をして、妻にせっつかれながら大きな荷物を車に詰め込んでいる(実際には車はもっていない)。早くしなさいよ、と急かされるのだが、足が動かない。足元を見ると、小さな手が僕の足をつかんでいる。早く出かけなきゃいけないのに、とイライラしてふりほどこうとしたら、それは痩せこけた少女だった。不細工な顔と目だけ大きい。「なんだ、お前もいっしょに行くか」と声をかけて、車に乗せたところで目が覚めた。
とりあえず、これで第一波はしのいだ。
第二波、第三波があるはずなので油断はできないが、彼女が生きていたら、手を打って面白がる、そう思うと元気が出てきた。
ああ、だから、生きていることにしろ、と言ったのか。世話焼きなやつだなあ。