「四谷怪談」を読む(二十八)産女の怪

柴咲コウの『喰女-クイメ-』(三池崇史監督)、風邪をひいたり、老親の世話があったり、仕事に追われたりして、とうとう観に行けなかった。今から思えば封切直後がいちばんのチャンスだったのに、もう少しして映画館がすいてから行こうと横着を決め込んだのがよくなかった。残念だがレンタル屋に出るまでおあずけ。

母・お岩

『実録四谷怪談』に序文を寄せてくださった横山泰子氏の著作に『江戸歌舞伎の怪談と化け物 (講談社選書メチエ)』がある。たいへん面白い本だが、なかでも第六章「フランケンシュタインとお岩、そしてそのこどもたち」は、鶴屋南北東海道四谷怪談』のお岩像を論じるのに、メアリ・シェリー『フランケンシュタインの怪物』と比較することで、母性に対するアンビヴァレンツな感情を解き明かすという離れ業を見事に成功させていて感嘆する。
同論文で横山氏は、お岩の母性に注目する。「芝居」のお岩は、伊右衛門とのあいだに一子をなした母なのである。
実際の「芝居」の名場面、髪梳きの場もむずがる赤子の泣き声をBGMに展開される。そして、お岩は怨霊となってからも赤ん坊を連れて登場する。

東海道四谷怪談』のお岩は、子を抱いた「産女」の姿で出現したのである。江戸時代の人々は、産褥で死んだ女性の霊は「産女」という想像上の鳥あるいは幽霊になって、道行く人に子を抱かせると考えていた。お岩もその「産女」となって現れる。だから、『東海道四谷怪談』は、お岩という女性が子を産み、その直後に死んで幽霊となり、化けて出る話だということができる。(横山泰子江戸歌舞伎の怪談と化け物』より)

ここから横山氏は、『フランケンシュタインの怪物』における産む者と産み出される者との緊張関係を媒介にして、『東海道四谷怪談』におけるお岩の母性に迫っていくのだが、私は子の方に注目したい。出産の経験というのは男にはわからないということもあるけれども、私が読んでいる『四ッ谷雑談集』では、お岩は母ではないからである。
東海道四谷怪談』の「お岩の場合は、出産し、死に、子を抱いて登場するという産女になるプロセスをすべて経験しているので、正真正銘の「産女」である」(横山、前掲書より)。ところが、『四ッ谷雑談集』や「文政町方書上」のお岩は、子どもを産んでいない。伊右衛門とのあいだに子をなす前に、奉公に出ることを口実に体よく離縁されている。だから、実録系のお岩には産女になる条件がない。にもかかわらず、『雑談』の一場面には、産女伝説のある要素が投影されている。それが伊右衛門の次男(引用文中では三男)鉄之助が遭遇した末妹お菊の亡霊である。

「お兄ちゃん、おんぶして」

鉄之助の錯乱がおさまらないので宴会はお開きになった。翌日の昼過ぎにようやく意識を取り戻した鉄之助に「何があったのか、何を見たのか」と尋ねると、次のように答えた。底本から引いておく。
「我昨夕裏へ行けるに、お菊我に負れんと云程に何心なく後をさし向たれば、其重事ひしぎ付らるゝ如く成しが頻恐く也逃帰けるを、我を追懸て此内迄来りたり。其外何も覚へ不申候」(句読点を補った)
夕べ、裏庭に行ったら、お菊がいたというのだ。一昨年に死んだ妹、それもまさにその日に法事をおこなって弔ったその本人がいたのだから少しは驚いてもいいのにと思うのだが、どうやら鉄之助は何の疑問も感じなかったようだ。
「お兄ちゃん、おんぶして」
おそらく鉄之助は、幼い妹をよくおんぶしてあやしたのだろう。だから、不審に思わずに背中を差し出した。ところが背負ってみると小さな妹がやたらと重い。その重いことといったら、「ひしぎ付らるゝ如く」であった。柔道の技に腕ひしぎ十字固めというのがあるが、押しつぶされるような重さだったという。
そこで怖くてたまらなくなり、妹をおろして座敷に逃げ帰って来た。妹はそのあとを追ってこの家までついてきた。それ以外は何も覚えていない。
鉄之助の語ったことは以上である。
この場面に産女的なものが投影されている。

悲劇というものは

妖怪を実体のあるもののようにとらえると、『雑談』には下半身を血に染めた女の姿など登場していないのだから産女の姿を認めることはできない。
ところが、実体ではなく属性の方に目を移すと、産女とは、子育て幽霊(飴買い幽霊)から、磯女(濡れ女)、おんぶお化け、夜泣き石まで、さまざまなバリエーションで語られる怪異群をキャラクター化したものの一つだとも考えられる。これは何も私が奇矯な説をとなえているのではなくて、柳田國男『妖怪談義』、『神を助けた話』や、今野圓輔『日本怪談集―幽霊編―』などの産女と類縁説話の記述を読めば、民俗学系妖怪学の妖怪理解は基本的にこの考え方をとっていることがわかる。
『雑談』のお菊は、おんぶお化けとして現れたので、産女怪異群の一形態だと言っていい。「負れん」(おわれん)というセリフもその証拠である。産女またはおんぶお化けは「負われよう」と言って出てくる。ここからその怪異を「オバリヨン」と呼ぶ場合もあるのは周知の通り(この点については『実録四谷怪談』に寄せたコラムに書いたので略す)。
と、こういうふうに語ってしまえば気が楽なのだが、おんぶお化け的な子どもの死霊の話は苦手だ。例えば、映画『仄暗い水の底から』の幼女霊がそうだ。黒木瞳演ずる若い母親にとり憑いて、冥界に引きずり込む彼女は、怖ろしい死神でもあれば、ひたすら母を恋う悲しい子どもでもある。若い母親もまた、そのことに気づいていて、自らの実娘を逃がすために、あえて取り憑かれて、死霊の幼女をあたかも我が子であるかのように愛おしげに抱きながら水の底に沈んでいく。映画を見たのはずいぶん前なので、記憶違いもあるかもしれないが、クライマックスは確かこんなシーンだったように思う。
『雑談』のお菊も、それがお菊の亡霊であるならば、単なる悪霊ではない。幼い妹がおんぶしてと兄にせがむ、それは仲のよい家族ならではの親愛、信頼の表現であって、ほほえましい光景ですらある。しかし、それに応えてしまえば死が待ち受けている。それを読み手は知っているけれども、妹が兄を慕う気持ち、兄が妹を可愛がる気持ちは無下に否定できるものではない。気持ちはわかるけれどもおぶっちゃいけない、でも、肉親の情としておぶっちゃうんだろうなあとハラハラするのである。
今さら言うまでもないことだが、『四ッ谷雑談集』は伝説や史実の断片を題材にしているとはいえ、あくまでも文芸作品である。この場面も鉄之助の死を産女伝説の一側面を使って怪談に仕立て上げているのであって、ここでの産女は伝説の通りではない。産女の怪は子連れであろうと女だけだろうと子どもだけだろうと、町はずれ村はずれの夜の道にあらわれるのがスタンダードスタイルである。人の家の庭にまで押しかけてこない。
つまり、『雑談』のお菊の亡霊はウブメとしては、ちょっとずれているのである。これは彼女が伝説の妖怪ウブメそのものではなく、またお菊の亡霊そのものでもなく、両者を合成してつくられたキャラクターであることを示している。妖怪的な亡霊という意味では、南北が「芝居」で描き出したお岩の亡霊に似た性格のキャラかもしれない。
ところで、伝説・民話の産女であれば、鉄之助に助かる道はあった。背に負うた妹をおろさず、どんなに重くても背負い続ければ、産女は大力や財宝などを授けてくれるはずだった。けれども、鉄之助は重さに耐えかね、妹を背からおろしてしまった。読者はこの時点で鉄之助が死ぬ定めであることを確信する。
確かギリシア悲劇を論じた文献(ど忘れ)で学んだのだと思うが、悲劇というものは人間が運命に敗北するドラマなのだそうだ。だから、観客は登場人物の行動を観ながら、このままだと失敗するぞ、その選択は最悪だ、などと、登場人物の次の行動を予想しながら、予想通り悲劇的な結末を迎えることを見届けて満足するのだという。『四ッ谷雑談集』はまさにこの通りに作られている。
鉄之助はその後も熱にうなされたので、医師を呼び、僧を招いて祈祷もしたが効果はなく、うわごとに「見よ見よ」というだけで正気に戻らず、惜しくも十三才の秋、八月十七日の暁、ついに無常の身と成こそ是非なけれ。