累ヶ淵伝説の舞台

昨日は妻と二人で、累ヶ淵伝説の舞台となった、茨城県常総市の、旧羽生村付近に出かけてきた。
北水海道駅からタクシーを使うのが最も便利だと聞いていたが、あえて一つ手前の水海道駅で自転車を借り、少し遠まわりをして飯沼弘経寺と法蔵寺を回った。
自転車を使ったのは、史蹟調査などは既に専門家によってなされているのだから、市井の怪談愛好者としてはむしろ少しでも土地の雰囲気を感じ取ることの方が重要だと思ったからである。
水海道駅から、ほとんどの店がシャッターを下ろしている商店街を通り抜け、突き当たった国道を左へ。鬼怒川にかかる長い橋を渡り、駅で借りた自転車をギシギシいわせながら、ゆるいアップダウンのある道をひたすら行く。ようやく見えてきた西中学校の交差点を右折して最初の目的地、報恩寺へ。
報恩寺は伝説の舞台となった羽生村からは離れているが、『死霊解脱物語聞書』に、報恩寺村の清右衛門という人物が累殺害の目撃者として名指しされているので気になっていた。なだらかな丘の上にある報恩寺を中心とした一帯が報恩寺村だったのだろう。清右衛門はここから鬼怒川べりまで行ったのだ。私にはずいぶん遠く感じたが、当時の人の足ならこの程度は大した距離ではなかったに違いない。現在の報恩寺は真宗大谷派に属し、東京・上野の報恩寺は元はここで創建され、後に江戸に移ったのだという。また、神祇不拝の真宗だが、この寺には天満宮がらみの伝説が伝わっており、上野の報恩寺で行事が継承されているようだ。

報恩寺の『俎開き』は1233(天福元)年頃から伝わる神仏混淆の儀式。報恩寺を開いた親鸞の高弟性信(しょうしん)の教えに深く帰依した老人が実は大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう) の祭神だったという伝承にちなんだ儀式で、天神様は天満宮宮司の夢枕に現れ「師である性信上人に感謝するため毎年一度、境内の池の鯉を2匹贈りなさい」と伝える。現在も毎年1月11日に常総市の大生郷天満宮から鯉2匹が常総市豊岡町の高龍山報恩寺に贈られ、翌1月12日に東上野の本坊へと届けられて『俎開き』の儀式となる。縦100cm、横150cmの巨大な俎の上に、体長50cmの鯉と、その鯉を供養するための菊の花束がのせられ、土佐烏帽子(とさえぼし)に直垂(ひたたれ)姿の包丁人がさばくもの。包丁を握るのは、平安時代の宮中での料理様式を今に伝える四條流の師範。長さ40cmの鉄の真魚箸(まなばし)を左手に持ち、鯉には指一本触れずに見事にさばく様は、集まる観衆が固唾を飲むほど見事。さばいた鯉は鯉こくとなってふるまわれる。

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報恩寺からさらに道なりに真っすぐ行くと、弘経寺の案内表示が見えてきた。案内に従って右へ入ると弘経寺の山門、若き日の祐天上人がいた寺である。山門の横には八幡神、金平神(金毘羅)、稲荷神をそれぞれ祀った社がある。境内はがらんとしていて、地元で千姫ゆかりの寺として持ち上げている割には、とくに見る物もない。明治時代に花火から出火して千姫ゆかりの品々はあらかた焼けてしまったのだそうだ。本堂と千姫墓所に参拝して、いよいよ法蔵寺に向かう。
法蔵寺は弘経寺から五百メートルほどのところだった。自転車でまわった感覚でいうと、すぐ隣の印象である。弘経寺にいた祐天が法蔵寺周辺で起きた事件を聞きつけてすぐに駆けつけたのもなるほどと思わされる。
累が淵の伝説は、おどろおどろしい怪談として語られることが多いため、何か陰惨な雰囲気の土地柄を想像しがちだったが、法蔵寺の周囲は、野の花が咲き乱れ、鶯が鳴き、白鷺が悠々と飛んでいく、天候に恵まれたためもあるだろうが、実にのどかな里という印象であった。この光景はきっと事件当時の人々も目にしていただろう。
ご住職がお暇であればお話を伺おうかと思っていたが、あいにく檀家の方が墓参りに来られたところにかちあった様子だったので遠慮して、境内を見学するにとどめた。ここも弘経寺と同じで、観光寺院化して伝説や史跡をいじられるのも困るけれども、それにしてもあまりに商売っ気がないというか、いちおう看板には「かさねの寺」とあったが、あくまで地元のお墓を守る寺という様子だった。
累さんの墓所に参拝した。四谷のお岩様には年に一回は詣でるが、累さんのところへはこれまで目黒の祐天寺ですませていたので、ようやくあなたの暮らした羽生村まで来ましたよ、と思うと目頭が熱くなった。
境内で面白い石仏を見つけた。童形弘法大師像である。現在の法蔵寺は浄土宗の寺である。そういえば、報恩寺ももとは真言宗の寺だったのを鎌倉時代親鸞の高弟が再興して真宗の寺にしたと案内板にあった。ここもそうだったのかもしれない。
帰りがけ、累ヶ淵を探したが、鬼怒川べりに出る道が見つからず断念。かわりに水海道方面に向かって行く途中に、弘経寺大門跡を見つけて驚いた。もうすでに弘経寺からは1キロくらい離れているのではないか。ここが大門だとすると、かつての飯沼弘経寺の境内はとんでもなく広大なものだったことになる。現在の弘経寺を基準にしては、江戸時代の飯沼弘経寺、北関東における浄土宗の拠点を想像することはとてもできない。ここで大勢の僧侶が生活し、北関東一円の浄土宗寺院のセンターとしてある種の行政を行なっていたわけだ。そこでの日用品を納める業者も周囲にいただろうし、芝の増上寺との連絡のために江戸と往復する人もいただろう。かつての羽生村を閉鎖的な農村とイメージするととんだ間違いを犯すことになる。
歴史環境は媒介なしには想像すらできないとあらためて気づかされた。