累の怨霊は怖かったか(続)−妄想「累ヶ淵」

先日、今週のお題「夏に聞きたい、怖い話」にひっかけて「累の怨霊は怖かったか」と題して『死霊解脱物語聞書―江戸怪談を読む』の初めの部分から妄想したことを書き連ねた。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20120716/1342434805
さらなる妄想を書いておこうと思う。
羽生村の農民与右衛門の娘、菊に取り憑いた何者かは、異変を聞きつけて集まった村の青年たちに自ら「我はきくにてはなし与右衛門がいにしへの妻に累と申女なり」と名乗った。二六年前に菊の父、与右衛門に殺された先妻の死霊だという。
青年たちはその言葉遣いなどから、なるほど累という人の死霊が取り憑いたのだろう、と彼女の言葉を受け入れた。同世代の少女に取り憑いた怨霊と対面しても青年たちは怖がらなかった。累の怨霊の言い分は、自分を殺した与右衛門を連れてきて彼の犯罪を裁いてほしいというもので、青年たちに危害の及ぶことではなかったからだ。
ここまでの詳細は、上記記事をご覧ください。
累の怨霊は復讐のために現れた。けれども、問題が累と与右衛門の二者関係に限られるものであれば、第三者にとっては高見の見物を決め込める。羽生村の青年たちが累の怨霊を怖がらなかったのは当然だろう。
累の怨霊を怖がるとすれば、累を殺した与右衛門と、与右衛門の犯罪を知りながら口をつぐんでいた潜在的共犯者たちである。
しかし、その他にもう一人、累の怨霊を怖れた者がいた。
羽生村名主の三郎左衞門である。
三郎左衞門は与右衛門の犯罪にまったく関与していない。羽生村の先代名主に聡明さを買われ、先代の養子となって他村からこの村に来た男である。村の古い醜聞などおそらく初耳だったろう。その三郎左衞門が、村の誰よりも早く累の怨霊の怖ろしさを正確に感じ取った。
「このままでは、この村は滅びてしまう」。
三郎左衞門はある日、そう気づいたのである。
以下、私の妄想をまじえながら、そこにいたる経緯を追ってみよう。

羽生村名主・三郎左衞門

三郎左衞門は有能な人である。頭の回転もはやい。儒仏の経典にたしなみもある。近くの宿場町・水海道の事情にも通じていて視野が広い。派手好きな女房に手を焼きながらも、羽生村名主の役を立派に努めてきた。
菊狂乱の第一報が三郎左衞門のもとに入ったのは、その日のうちのことだったろう。与右衛門の娘に累と名乗る死霊が取り憑いて自分を殺した与右衛門を裁けと言っているので、村の若い衆が与右衛門を探しに法蔵寺に押しかけている、という報せだったのではないか。
三郎左衞門はすぐには動かなかった。若い娘の神懸かりは時折あることだし、その日、村の青年達が農閑期のレクリエーションとして月待ちの行事にかこつけて集まっていたのも知っていた。若い連中が格好のネタを見つけてはしゃいでいるのだろう。いずれも一過性のもので、菊が正気に戻れば騒ぎは収まるはずだ。ここで村役人である自分が出ていってはかえって大事になる。しばらく様子を見よう、と三郎左衞門は考えたのだと思う。
しかし、夜も更けてから届けられた第二報にはいささかうろたえた。若者達によって、菊の前に連れてこられた与右衛門が自分の罪を認めたのだという。与右衛門も当初は、娘は気が違ってうわごとを言っているだけだからとりあわないでくれ、と主張していたが、菊に取り憑いた累が、隣村・報恩寺村の清右衛門を事件の生き証人として名指ししたことで観念し、涙を流して謝罪したとのこと(おやおや、あの人、本当に人殺しをしていたのか)。その上、村の若者達が、累に詫びを入れさせるため、として、与右衛門の頭を剃って出家を強要したのだという(元気のいいことだが、ま、刃傷沙汰にならなくてよかった)。
そこまで話を聞いた三郎左衞門は、それで菊の容体はどうです?正気に返りましたか?と尋ねたはずだ。与右衛門が頭を丸めて詫びを入れても菊の興奮状態は収まらず、何かに苦しみもがき続けているという。
…うーん、そうですか。報せてくれてありがとう。私も明日にでも見舞いに行きましょう。それで、悪いが、帰りがけに庄右衛門さんの家によって、明日の朝、私のところへ顔を出してくれと伝えてください…。
年寄(名主の補佐役)への言付けを頼んで村人を送りだした三郎左衞門は考え込んだ。清右衛門の名前が取り沙汰された以上、騒動は今ごろ隣村にも知れわたっていることだろう。二五年だか二六年だか以前の犯罪を今さら代官所に持ち込んだところで取り合ってはくれまい。しかし、このまま放置しておいては村の評判にさしさわる。なんとか落としどころを見つけないといかんな。そんなことを考えながら浅い眠りについた。
翌日、庄右衛門は早朝から名主の屋敷にやってきた。他村から養子に迎えられた三郎左衞門とは違い、庄右衛門はこの羽生村の生え抜きである。気が強くて遠慮のない物言いの男だが、村の人間関係も熟知していただろう。そこを買われての名主の補佐役である。
庄右衛門は開口一番、ありゃ与右衛門の自業自得だ、と決めつけた。若者達の狼藉をかばったのである。…実は、前からそういう噂はあったんだ。もう死んじまったが現場を見たっていう人もいた。あらましはその累の怨霊とやらが言っているとおり。生き証人までいたんじゃ与右衛門も言い逃れはできないだろう…。
三郎左衞門は、庄右衛門の話に内心で少し驚いた(それって犯罪じゃないか…)が平静を装った。…それはそれとして(っていうか、みんな知っていて黙っていたのか。まさか村ぐるみで邪魔者を始末したんじゃないだろうな…)、累に取り憑かれて苦しんでいる菊がかわいそうじゃありませんか(悪事を見逃してしまった村の責任というものもある。そもそも累という人の婿に与右衛門を世話したのはうちの先代だし…)。ここは一つ、われわれも村の責任者として累の怨霊に謝罪して、菊を正気に戻すよう怨霊をなだめましょう。
これ以上騒ぎを拡大しない、菊が正気に戻りさえすれば万事解決とする。これが名主として三郎左衞門がくだした決定だった。
それから三郎左衞門と庄右衛門は与右衛門宅に出向き、以後、二人はたびたび累の怨霊と交渉を重ねることになるのだが、そうなることはこの時点で知る由もない。この名主と年寄のコンビが『死霊解脱物語聞書』上巻の主要人物である。この二人と累の怨霊が繰り広げる駆け引きもこの物語前半の見せ場の一つなのだが、その部分には原著者・残寿により浄土宗大衆教化パンフレットとして脚色された形跡が色濃くあるため、ここでは細部は省略し、おおまかな経緯のみ記す。

第一回交渉

一月二四日〜二六日(「羽生村名主年寄累が霊に対し問答の事」)。
名主・三郎左衞門と年寄・庄右衛門は村の幹部クラスの男たちを伴って、与右衛門宅に出向き、まず三郎左衞門が苦しみもだえる少女に問いかけた。

先名主泡吹だし苦痛てんどうせるきくに向て問ていわく。汝累がうらみはひとへに与右衛門にあるべし。何故ぞかくのごとく横さまに菊をせむるや。

三郎左衞門の第一声は、このあとの問答のどれよりも重要である。まず名主は菊に向かって「汝累」と呼びかけている。名主はこの交渉相手を、生まれたときから知っている与右衛門の娘・菊ではなく、自分が会ったこともない与右衛門の最初の妻・累という人だ、と思い定めて言葉をかけたのである。これによって菊に取り憑いた者は、村の行政の責任者からも累として認知されたことになった。
続く言葉も重要である。累の怨みはただ一人与右衛門に対してあるはずだ、と決めつけることで、累殺しの責任の範囲を与右衛門一人に限定している。もし、与右衛門が謝罪したのに菊から離れないのは他にも目的があるからなのか?などと不用意に尋ねて、あれもこれもと言い出されてはかなわない。問題を拡大しないようにとの細心の配慮がしのばせてある言葉だ。
そのうえで、どうしてこんなに非道く菊を責めるのか(菊にはなんの罪もないだろう)?と問うた。これもまた累の復讐の対象を与右衛門一人に絞り込むことで被害を最小限に食い止めようとする戦略だろう。
さて、結果はどうなったか。のたうちまわっていた菊は起き直り、はっきりとした口調で答えた。累が答えたのである。

おヽせのごとく我与右衛門にとり付即時にせめころさんはいとやすけれ共。かれをばさて置。きくをなやますは色々の子細有。其故はまつさし当て与右衛門に、切成かなしみをかけ。其上一生のちじよくをあたへ。是を以て我が怨念を少しはらし。又各々に菊が苦痛を見せて、あわれみの心をおこさせ。わらわがぼだいを訪れんため。次に邪見成もの共の。長き見ごりにせんと思ひ。菊にとり付事かくのことし

「おっしゃるとおり」と累は答えた。与右衛門に取り憑いて責め殺すのはたやすいことだが、菊を悩ますのはいろいろ理由がある。まず、娘を苦しめ、また娘の口から旧悪を暴露することで与右衛門を悲しませ、辱めることで自分の怨念を晴らすこと。次に、村人たちに菊の苦しみを見せることで哀れみの心を起こさせ、私を追悼してくれるよう仕向けること。それから、邪な心を持つ者どもに対する教訓にしようと思い、菊に取り憑いた。
累の怨霊は名主の問いに対してこのように答えた。第一の目的はほぼ達している。最後の道徳的な教訓はいかにも付け足しと言っていい。累の主たる要求は弔い、すなわち追悼による宗教的救済であった。
このあと、年寄・庄右衛門も加わって問答が続き、庄右衛門が死んだ人は多いのにどうしてお前一人が地獄から帰ってきたのかと尋ねたのに対し、累が「我は最後の怨念に依て来りたり」と答えたので、怨霊退散の祈祷をしようということになった。村の祈祷師を呼んで仁王経、法華経、般若心経など読経させたが、累は法華経の文句を逆手にとって嘲笑い、念仏を称えてくれと要求した。そこで、日をあらためて二六日、累の菩提寺である法蔵寺住職を招いて村人総出で念仏供養を行ったところ、累の怨霊は立ち去り、菊は正気に返った。
累の怨霊vs.羽生村の第一回戦を振り返ってみると、周到に用意された名主の問いかけに、累が「おヽせのごとく」と答えた時点で勝負がついていたことがわかる。三郎左衞門の知略の勝利である。

第二回交渉

二月二六日(「累が霊魂再来して菊に取付事」)。
名主の三郎左衞門は羽生村きってのインテリだが、人情に厚い人でもある。念仏供養によって累が往生した一月二六日からちょうど一カ月後の二月二六日早朝、またも菊に累の怨霊が取り憑き、さっそく名主・年寄コンビが呼ばれた。
到着するなり三郎左衞門は、累の霊魂ならば念仏供養で極楽往生したはず、さては狐狸妖怪のたぐいだなと高圧的に叱りつけた。その声を聞くや菊は起き直り、累となって、先月の供養の礼を述べたうえで、なお一つ願いがあると言う。自分のために石仏を一体、建立してほしい、と言うのである。
このあと名主と累が、石仏建立の意義について議論するが、ここでは省略する。だが、今回の累は一筋縄ではいかなかった。念仏より石仏の方が功徳があるのかという名主の疑問を「おろかにもとわせ給ふものかな(馬鹿なことをお尋ねですことよ)」と軽くあしらい、さらに報恩のあり方について議論になった際には、理詰めで論破しようとする三郎左衞門に対して見事に切り返してみせた。

かさねにつこと打わらひて云様は、誠にそなたは他在所の人なれども、おさなきより器用なる仁と聞及び、しうとめ御せんのこい婿になり、当村の名主をもたるヽ甲斐ありて、只今一々の御教化、実に以て聞事なり。去ながら其道理の趣く所、たヾ当然の小利をとつて幽遠広博なる、深妙功徳の大報恩をかつて以てわきまへたまわず。我が報恩の所存をよくゝ聞せられて、早く石仏を建て、其上に念仏供養をとげられ、我に手向たまへ。

この場面も印象的だ。累はニッコリと笑って名主に反論した。『死霊解脱物語聞書』には、菊ではなく、累が笑ったと書いてある(「かさねにつこと打わらひて」)。名主が対面しているのは物理的には菊という少女のはずだが、人格的には累なのである。
…ほんとうにあなたは、余所の村の人なのに、幼い頃から聡明な子だと評判で、お義母さまに乞われて養子となり、この村の名主をつとめているだけあって、今のお話もとてもためになりますね。しかしながら、その論理は目の前の小さな利益を追うばかりで、深遠な仏の恩をわきまえているとは言えません。私の考えをよく理解して、早急に石仏を建立し、その上で念仏供養をしてくださいね…。
なんという上から目線! 物理的には十四の少女が、年長の村役人を子ども扱いしているのだ。この時点で三郎左衞門は負けている。彼の心が折れる音が行間から聞こえてくるようだ。
実際、このあと年寄の庄右衛門が費用の問題を持ち出して累をやりこめるのだが、逆ぎれした累が菊の身体を責めさいなむ様を見た名主は、もはや見るに忍びず、水海道の街で見かけた如意輪観音像を購入するからと累をなだめ、自分の財布から費用を出すことにしてしまう。その上、再度の念仏供養も約束させられる。二回戦は、累の完勝である。
だが、この回はこれだけではすまなかった。村中で累の菩提を弔う一夜念仏を行うことになったが、せっかくだから、累にあの世のことを尋ねたい、亡き親兄弟の死後がどうなっているか聞きたいという希望が村人たちから出て、翌日の朝から累にあの世のことを尋ねる会というイベントが催されることになったのである。
このイベントがとんでもない展開になっていくのだが、ここまで思いきり端折ったつもりだったのにもうずいぶん長くなってしまったので、続きは後日。