忠臣蔵論争への挨拶

 風聞によると文楽は台本が古くて現代人の鑑賞にたえないのだそうだが、やはり人形浄瑠璃の台本として書かれた『仮名手本忠臣蔵』(以下、忠臣蔵と略記)は今でも歌舞伎の人気演目である。
先日、作家の丸谷才一氏が亡くなったというニュースがあった。私は同氏の文学のよい読者ではなく、丸谷氏と言えばあの忠臣蔵論争しか思い出さない。丸谷氏と国文学者・諏訪春雄氏とのあいだで起きた論争である。
 この忠臣蔵論争の発端は、1984年に発表された丸谷による評論『忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫)』である。ごく簡単に言えば、丸谷はここで、民俗学や人類学を参照しながら、忠臣蔵とは御霊信仰を動機にしたカーニヴァル的演劇だと論じたのである。丸谷は同書の結論部分で「うんと大づかみに言へば、春と冬の対立と交替といふ自然界の循環の比喩の上に、将軍徳川綱吉あるいは徳川体制への呪ひを盛りつけたのが『仮名手本忠臣蔵』の基本の構造」だと自説を要約している。すなわち、赤穂浪士による吉良邸討ち入りに江戸時代の庶民が喝采した背景には、犬公方・綱吉の悪政への呪詛があった。ただし、綱吉の悪政の代名詞のように言われる生類憐みの令は、当時としては必ずしも突飛な政策ではなかったという説(塚本学『生類をめぐる政治―元禄のフォークロア (平凡社選書)』)もすでに発表されていたが、論争相手の諏訪もふれていないのでここでは取り上げない。
 ともあれ、おおやけに幕政批判をすることが禁じられていた江戸時代の庶民は、吉良上野介との確執の真相が解明されないまま即日切腹となった赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に同情し、彼の霊を菅原道真平将門のような御霊(怨霊)に見立てて、その怨霊の霊威による世直し、綱吉政権の打倒を願った。「民衆は死霊に怯えながらも、異変をもたらすことのできる不吉な英雄に憧れたらう」と丸谷は想像した。江戸庶民の期待通り、異変は起きた。元赤穂藩国家老・大石内蔵助の率いる赤穂浪士が、江戸・本所の吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討ちとったのである。

孝道も武士の倫理も実は意識の表層にある徳目にすぎず、彼らはもつと深いところで、古代以来の信仰によつて動かされてゐた。四十六人の浪士は、ちようど菅原道真の霊をなだめて落雷その他の災厄をまぬかれようと、高位を贈つたり、神社を建てたり、その神社へ天子が拝礼したりするのと同じような、怨霊慰撫の儀式として吉良上野介の首をあげた。

 赤穂浪士御霊信仰というフレームを通して自らの行動を理解していた、そして、江戸庶民も御霊信仰というフレームを通して赤穂浪士の行動を理解した。これをベースに成立したのが忠臣蔵という芝居だというのが、丸谷の第一の主張であった。
 これに対して翌85年に、諏訪による丸谷批判「御霊信仰判官びいき」(『聖と俗のドラマツルギー―御霊・供犠・異界』所収)が書かれ、丸谷の反論「お軽と勘平のために」(『芝居は忠臣蔵 (丸谷才一批評集)』所収)が出され、これに対して諏訪の再批判「忠臣蔵のために」(諏訪、前掲書)、丸谷の再反論「文学の研究とは何か」(丸谷、前掲書)と続いた。この論争の内容には立ち入らない。ただ、論争の際に交わされた「挨拶」にだけ注目したい。
 諏訪の丸谷批判「御霊信仰判官びいき」は、近世演劇史に照らして丸谷の事実誤認を指摘しながら、御霊信仰という概念についての丸谷の拡大解釈を難じるというものだった。この批判の最後の節は次のように書き出されていた。

本稿の意図は丸谷氏の論の全否定にあるのではない。忠臣蔵を日本文学史の正当な場所に位置づけたいという氏のお考えには深く共鳴するし、枝葉の論を排して、忠臣蔵の本質に肉薄していく本書の叙述態度には強い刺激と知的興奮を覚えた。

諏訪はこのように自分の「意図」を表明しつつ、評論家・山崎正和の「この本は、世界的な演劇祭祀論の力強い傍証であり、現実は時にそのまま演劇でありうるという、新しい意味での「世界劇場」論の試みになっている。それはまた、優れた日本文化論であるとともに、都市論でもあるのはいうまでもない」という『忠臣蔵とは何か』評を引用して、「同感である」としている。
 丸谷の反論「お軽と勘平のために」はここに噛みつくところから書き出された。冒頭の一節を丸ごと引く。

 諏訪春雄はわたしの『忠臣蔵とは何か』(講談社刊)を批判した『御霊信仰判官びいき』(「新劇」一九八五年三月号)の終わり近くで、「本稿の意図は丸谷氏の論の全否定にあるのではない」と記してゐる。忠臣蔵御霊信仰でもないしカーニヴァルでもないと論じたあげく、こんな挨拶をするのは筋ちがひだらう。まさしく「全否定」の論旨だからである。さういふ自説を率直に述べる態度はいい。しかしこのやうな虚礼は国文学者を相手どるときのため取つておくほうがよからう。小説家兼批評家と渡り合ふのに挨拶はいらないのである。
 しかしひょっとすると、あれは社交辞令ではないのかもしれない。諏訪は案外、自分の書いた文章をまともに読むことができず、それが「全否定」になつてゐることに気づかないのかもしれない。あるいはまた「全否定」といふ言葉の意味をよく知らないとも考へられる。といふのは、彼はそれにつづけて、『忠臣蔵とは何か』を評した山崎正和の文藝時評の一節を引き、「同感」とだと述べてゐるからである。もしそれが本当なら、約二十ページにわたつて攻撃した、何から何までデタラメでまつたく取り柄のないはずの本が、ここでいきなり、「世界的な演劇祭祀論の力強い傍証」、「新しい意味での『世界劇場』論の試み」、「優れた日本文化論であるとともに、都市論」に変るわけだ。わたしには何が何やらさつぱりわからない。何とかわかつたやうな気になるためには、この人は文章を読めないし書けもしないのだなと思ふしかない。

 これに対して諏訪は「忠臣蔵のために」で次のように応酬する。

 氏はまず私が前期文章の終わりで、「本稿の意図は丸谷氏の論の全否定にあるのではない」と記した部分をとりあげ、「忠臣蔵御霊信仰でもないしカーニヴァルでもないと論じたあげく、こんな挨拶をするのは筋ちがひだらう」となじられ、山崎正和氏の文芸時評の一節を引用して私が「同感」だとのべたことをいい、「この人(つまり私)は文章を読めないし書けもしないのだなと思ふしかない」と慨嘆してみせられる。
 しかし、氏が慨嘆されるほどには私の文章は悪くはないらしい。なぜなら、氏は私の文意をきわめて正確に読みとっていて下さるからである。氏自身がいわれるように当該個所はまったくの「挨拶」である。

「バーカ」、「お前の方がもっとバーカ」、「バカって言うほうがもっとバーカ」、「それはお前だろ、バーカ」。
この大人げないやりとりは、丸谷の再反論「文学の研究とは何か」まで続く。この丸谷の再反論が国文学研究の方法を問題にし、諏訪の態度を「素朴なリアリズム」と決めつけたため、この論争は、実証を重んずる研究者と想像力を重んずる作家・批評家とのあいだで、事実の究明か大胆な仮説かを争ったものであったかのような印象が世間に定着した。ひらたく言えば、正しいのは諏訪だが、面白いのは丸谷だ、というようなところに世間の評判は落ち着いた。もっともこれはあくまでも当時の文学青年だった私の浅薄な印象にすぎないので、それこそ実証的な批判に耐えるものではないけれども。
 しかし、丸谷と諏訪の対立軸は方法論ではない。諏訪の最初の批判に対して丸谷は「忠臣蔵御霊信仰でもないしカーニヴァルでもないと論じたあげく、こんな挨拶をするのは筋ちがひだらう。まさしく「全否定」の論旨だからである」と言っており、諏訪も、その通りあれは「挨拶」だと応じている。忠臣蔵御霊信仰に根ざした芝居であり、カーニヴァル、すなわち祝祭的演劇である、これが丸谷の論の核心であり、諏訪はそれを「全否定」した。これが論争の焦点である。そして、「御霊信仰」と「カーニヴァル(祝祭)」についての両者の定義が違うため、この論争は最初から最後まで平行線をたどったのである。
 一見、両者とも譲ることのできない対立のように見えるが、実はそうでもないのではないか、というのが、論争から三十年近く経った今、私が抱いた感想である。
この続きは近いうちに別のところで。
あ、決して、どっちもバーカというオチではない。