藤田省三『精神史的考察』メモ「或る喪失の経験」二

さて、藤田省三「或る喪失の経験」、ようやく第二節だ。
この節は簡単にすませたい。というのも、少し先回りしておけば第三節で藤田自身が次のように整理しているからだ。

成年式についての話がついつい如何にも体系的な説明のようなものになってしまったのは、私としてもいささか心外であった。もっと飛躍を含んだ端的な断片で言い得て短く走り切るのでなければ、私にとってのあるべき姿には程遠いのだけれども、もう致し方なくこのまま進行を急ごうと思う。要するに、おとぎ話の遥かなる背後には成年式の社会史的経験があって、それは神話と英雄物語から動物譚や笑劇などにおよぶいくつもの型の物語りの構造的塊りを包み込んでいたのであった。

ここで「おとぎ話」と言われているのは「親指小僧」型冒険譚のことで、この「或る喪失の経験」では他のタイプの物語は考慮されていない。
さて、第二節の趣旨は上記のように藤田自身が要約してくれているので、それ以外の面を拾い読みしていく。
冒頭はこう書き出されている。

おとぎ話と隠れん坊の世界が映写しているものは、肉臭を去った経験の「粋」であり質料から解放された経験の「形相」であった。それほどまでに純化された作品が、世界に股がる広い普及度と大衆性をもって存在して来たのである。誰が一体これを作ったのであるか。(藤田省三『精神史的考察』より)

「誰が一体これを作ったのであるか」、これがここでの問題である。民話の作者を同定するのは不可能に近い。だから「誰が一体これを作ったのであるか」という問いは、民話の起原へとさかのぼるという意味である。しかし、これもまた危険な遡行だ。起原への遡行はすべからく危険を伴う。このことは、先日、『コーラ』に寄稿した「忠臣蔵論争」論でもふれたように、あったはずのものの探究は、いつのまにか探究者にとってあるべきものの探究にすり替わってしまうからだ。事物の起源は愚者の楽園である。
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丸谷才一も諏訪春雄もそれぞれの考える日本的悲劇の原型についての仮説を、状況証拠だけから論証しようとするのだが、その証拠をどう解釈するかも起原についての仮説に照らしてなされているので、仮説が原理にすり替わってしまう。
藤田はどうしたか。

おとぎ話と隠れん坊の作者は一体誰であるのか。「歴史」と答えるべきでもあり「社会」と答えるべきでもあろう。しかし、元々のその起原を年表や時刻表のように確かめようとすると、それは歴史の始めと共に杳として深い時間の淵の中に姿を隠すし、どこかの特定の社会に発祥の地を求めようとすると、それは漠としてあらゆるところに拡散する。すなわち、人間の社会の歴史の中に空気の如き普遍性をもって「作者」が住んでいて、それぞれの地域に特徴的な道具立てと仕草を持ちながら、しかも同じ主題を同じ構図で展開しているのが、おとぎ話と遊戯の世界なのである。

丸谷と諏訪は、悲劇の日本的起源にこだわってそれぞれの日本文化観を起原に投影していたが、藤田は「空気の如き普遍性」ととらえることで、そうした偏向を回避している。それではとらえどころのないものをどうとらえるのか。歴史の中で繰り返される物事に注目する。

しかし、偏在する神も時として具体的な形をとって社会的現象の中に姿を現わすものである。人間社会の歴史を通して偏在しているおとぎ話の「作者」もまた、有形の社会的行事として、あらゆる社会に長い歴史を通して繰り返し出現していた。

文字通りの起源ははるか遠い昔に一度だけだから想像するほかないが、繰り返されているものであればその輪郭をつかまえることはできる。それは「成年式と呼ばれる社会の祭式」で、「V・プロップの劃期的な分析を含む先学の諸研究から推しても、ほぼ間違いない」と藤田は言う。
これに対応するのは、おそらくここ、やはりロダーリ『ファンタジーの文法』におさめられた「プロップのカード」から。

民話の構造には儀式の構造がくり返されている。この観察からウラジーミル・プロップ(かれ一人とは限らないが)はその理論を生み出した。それによれば、民話が民話として生きるようになったのは、古い儀式がすたれて、ただのお話になったときからである。何千年か経つうちに、語り手は儀式の思い出をしだいに折りまげ、しだいにお話をお話らしくしてしまった。(中略)
民話は、結局、聖なる世界から世俗的世界への降格から生まれたのだ。その昔儀式と文化の対象であったものが降格によって子どもの世界へ達し、あそび道具に生まれ変ったことになる。たとえば人形がそうであり、独楽がそうである。演劇の起源にも、聖から俗へという同じ過程がないであろうか。
原始の魔術を核として、そのまわりに、民話は非神聖化された神話や、冒険譚や、伝説や、逸話などを集め、魔法を使う登場人物のわきに田舎風の登場人物(ずるい男や頭の足りない人物)を配置した。こうして稠密で複雑なマグマができあがった。それは多彩な色をもった一かせの絹糸にも似ているが――プロップによれば――きわ立って映える一本は、やはりここで述べた一本である。(ロダーリ『ファンタジーの文法』より)

きわ立って映える一本の絹糸とは、「親指小僧」型冒険譚のことである。このタイプの「民話の構造は――プロップにしたがえば――入門儀式の構造の再生」である(ロダーリ)。入門儀式とはイニシエーション、藤田の文章では「成年式」のことである。
脱線すると、70年代の終わり頃にモラトリアム人間論というのが流行った(小此木啓吾モラトリアム人間の時代』など)。若者論の常として、最近の若い奴はなっとらんというお叱りと、いやいや今の若者も時代の流れの中でそれなりに頑張っているという擁護論との二つのベクトルがあった。いずれも不毛なものだった。というのも、モラトリアム人間論には、若者がなかなか大人になろうとしないことを指摘したのみではなく、そもそも目ざすべき大人モデルが空洞化、あるいは拡散しているという指摘も含まれていたのに、その点は当時の大人の論者たちにはあまりふれられなかったからだ。提唱者の小此木氏がどういうつもりだったかは別として、モラトリアム人間論は読みようによっては大人批判の議論でもあった。
ちょっと思い出したのでメモ。