「四谷怪談」を読む(四)太平記!

時代設定のことはまた折りを見て蒸し返すとして、『実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む』の底本とした『四ッ谷雑談集』写本のもう一つの特徴を挙げておくと、すべての章ではないのだけれども、いくつかの章の冒頭に故事やことわざを引いた道徳のお説教じみた前置きがあることが挙げられる。それがどのような倫理思想の立場から語られたのかも興味深いが、ここではとりあえず仏教と儒教の入り混じった通俗道徳的な性格があることを指摘するにとどめる。ただ「田宮又左衛門病死之事」冒頭の次の文は『四ッ谷雑談集』全体の枠組みにかかわることかもしれないので注目したい。

新田左中将義貞の曰、「夫可為大将人の嗜思ふ事三ッ有。第一天命を知る事、第二人を知る事、第三報を知る事、是三也」天命を知る事なければ幸なし。第二人を不知は大勢仕ふ事有まじ。又報を不知は不可有。

この新田義貞の言葉だという文の出典を探して『太平記』や『太平記評判理尽抄』を読んでみたのだが、まだ探し当てていない(『梅松論』は未読)。しかし、出典もさることながら、本編の冒頭とも言える場所に新田義貞が出てくること自体が重大なことなのではないかと気づいた。
これがなぜ重要かというと、この写本の後書きAでも「サレハ左中将義貞ノ報ヲ知スンハ其家可絶ト有シハ実ニ金言可成」と言及されているからである。『四ッ谷雑談集』(以下『雑談』と略)本文の書き手と、後書きAの書き手が同一かどうかはわからないが、少なくとも後書きAは本文第二章冒頭のこの文章を意識して書かれている。
ちなみに『雑談』の前書き的な最初の章「江戸繁栄日記 并四ッ谷開発之事」の書き出しは「家康公関東御下向以来」である。徳川家康のことを讃えるのは当時の慣例のようなものだったかもしれないが、いよいよ本編に入る章で新田義貞を持ちだすのは念の入ったことだ。

まず「慶長の頃」の家康の太平記享受から思い合わされることは、慶長年間のかれが、清和源氏新田流を称していたという事実である。慶長八年(一六〇三)三月、征夷大将軍就任の返礼として上洛した家康は、朝廷で「新田殿」とよばれている(『お湯殿上の日記』慶長八年三月)。
「新田殿」とよばれることが、足利将軍にかわる大義名分であったのだが、「新田殿」家康にとって、新田氏の事績にくわしい太平記は、まず第一に「家の歴史」としての意味をもつものであった。(兵藤裕己『太平記<よみ>の可能性 (講談社学術文庫)』)

江戸時代の道徳観や歴史観の形成に『太平記』が果たした役割の大きかったことは、若尾政希『「太平記読み」の時代: 近世政治思想史の構想 (平凡社ライブラリー)』でも説かれていることである。そして、とくに「四谷怪談」との関連で言えば、南北の歌舞伎芝居『東海道四谷怪談』が『忠臣蔵』の外伝として書かれたことにかかわってくる。
東海道四谷怪談』の設定は動機が不純といわんばかりの評され方をすることが多い。だいたい日本の文化人には「四谷怪談」嫌いが多いようだ。鼻で笑うような批評や、あからさまに侮蔑的な態度を示したものもある。この「四谷怪談」軽視、「四谷怪談」嫌悪、「四谷怪談」差別問題も時間があればじっくりやりたいところだが、今はやめておく。ともあれ、否定的な批評の代表は、『東海道四谷怪談』とは『忠臣蔵』人気に便乗して作られた芝居だというものである。もちろん、歌舞伎は商業演劇だから、観客を集めて拍手喝采してもらわなければ商売にならない。しかし、そんなことで作品の価値をおとしめようというなら、そもそも『忠臣蔵』も赤穂事件の評判に便乗して作られた芝居である。いや、歌舞伎も浄瑠璃も能も、芸能というものはすべからくそういう側面がある。世阿弥の『花伝書』にも能は人気商売だとはっきり書いてある。問題はそこではなく、南北が『忠臣蔵』の世界を背景に「四谷怪談」を劇化したのはなぜかということだ。
忠臣蔵』の世界とは何か。『太平記』のことである。竹田出雲『仮名手本忠臣蔵』は、元禄十五年に赤穂藩主・浅野内匠頭の遺臣たちが主君の仇である吉良上野介を討ち取る話ではない。そんなことはどこにも書かれていない。室町時代の初めに塩谷判官の遺臣らが主君の仇である足利家重臣高師直を討ち取る話である。もちろん、これは元禄十五年の赤穂事件を『太平記』の世界に移して描いたものだとは誰もが知っている。だが、建前上はあくまでも『太平記』の世界からスピンオフした物語として描かれている。
このことをよく踏まえれば、南北が『東海道四谷怪談』を構想する際に、『忠臣蔵』の世界を背景にしたのも当然となる。『四ッ谷雑談集』に『太平記』の主要登場人物である新田義貞が出てくるからだ。さらに、南北が『太平記』自体ではなく、『太平記』の世界を借りた『忠臣蔵』をもってきたのは、『雑談』に浅野内匠頭の親戚(浅野左兵衛)が登場するからだろうが、これについては『実録四谷怪談』のなかで注記しておいたので重複を避ける。
今回もまた背景説明に終始してしまったが、「四谷怪談」理解に当たり重要なヒントになると思うので書き留めた。